ローカル線の回顧録

1970年代後半から2000年頃までのローカル線の記録

第1172話 1997年南部縦貫:オッと、続行運転!!

南部縦貫鉄道が営業運転を休止したのは1997年5月でした。早いもので、もう27年前のことです。あくまでも休止と言うことで廃止ではありませんでしたが、走れば走るほど赤字が膨らむので、やむを得ない判断だった様です。とうとう「メルヘンの世界」は現実に負けてしまいました。その後の休止期間は、野辺地~西千曳間の軌道用地(=国鉄清算事業団からの借用地)購入など、東北新幹線の青森開業を目論んで水面下の復活活動は続きましたが、なかなか実現しない新幹線開業に痺れを切らして、2002年8月1日をもって正式に廃止されました。

そんな南部縦貫鉄道の休止目前だった1997年のGWに、元祖レールバスの最後の活躍を見に行きました。

 

1.キハ102 (道ノ上~坪川:1997年4月)

この日は大阪から飛行機で青森へ向かい、南部縦貫の午後の運行に何とか間に合いました。最初の撮影は坪川です。勝手知ったる「禁断の路線バス」で出向いてみると、やはり休止間近の連休だったので、結構多くの同行者がいました。

 

2.キハ102 (道ノ上~坪川:1997年4月)

この場所で、こんなに多くの人を見るのは初めてでした。初っ端からうんざりでしたが、幸い皆さん同じような場所で撮影していたので、お互いを撮ることもなく、落ち着いて撮影できました。

 

3.キハ102 (道ノ上~坪川:1997年4月)

最初に現れたのは、サヨナラのヘッドマークを付けたキハ102でした。なんと小さなレールバスの車内はギュウギュウ詰めの大混雑です。まるで耐久試験をやっている様です。

 

4.キハ102 (道ノ上~坪川:1997年4月)

この日は、「乗り鉄」も「撮り鉄」も大挙してレールバスにたかっていました。果たして、このレールバスにこんなに人が乗ったことがあったのか?老体のレールバスが最終日を目前にして壊れてしまわないか心配です。

 

5.キハ102 (道ノ上~坪川:1997年4月)

レールバスは坪川橋梁を渡り、野辺地へ向かいました。さて、折り返しが戻って来るので撮影場所の移動ですが、皆さん動こうとしません。折り返しもここで撮影するつもりなのか?

 

6.キハ101 (道ノ上~坪川:1997年4月)

・・・・と、思っていたら、続行でキハ101が来ました。慌てて撮影です。キハ101はヘッドマークなしです。まさか続行で来るとは思いませんでしたが、ここに居た皆さんは続行運転を知っていた様です。レールバス1両では運び切れないほど混雑していたわけですが、連結運転ではなく続行というのがなんともアバウトです。

第1171話 1994年野上:撮影禁止令布告(その4)

朝のラッシュが終わり、日方に戻りました。今回は車庫の様子です。しかし、この頃になると、車庫内の立ち入りは許可されず、日方駅、列車内の「撮影禁止令」が布告されていました。ならば、車庫の外から撮影です。

 

1.モハ31+モハ32 (日方:1994年2月)

この日は土曜日だったので、ラッシュ時の2連は1本しか運行されず、この元阪神の明かり窓コンビはお休みでした。正直、どこまでが日方駅なのか、よくわかりませんでしたが、勝手な解釈で、撮影させて頂きました。

 

2.日方構内全景 (日方:1994年2月)

ここから先は立ち入り禁止!!連絡口から車庫を覗くと、こんな感じでした。モハ27とデ13以外の車両が昼寝中です。この光景もまもなく見納めです。

 

3.モハ25+モハ26、デ11 (日方:1994年2月)

車庫に入れないので仕方なく、頑張ってズームで撮影です。この電車たちはいずれも先ほどまで走っていました。

 

4.クハ104、モハ24 (日方:1994年2月)

クハ104とモハ24(アーモンドチョコ)は、車庫の奥に突っ込まれていました。クハ104はもう使われていないようです。モハ24は、やはりアーモンドチョコ塗装のまま最後を迎える様です。

 

5.モハ25+モハ26 (日方:1994年2月)

さて、野上電鉄が廃止されると、これらの車両はどいうなってしまうのか?野上電鉄は会社解散となるので、会社として車両を保存する余裕などあるわけがありません。願わくば、地元の自治体や有志者に1両でも多く引き取ってもらいたい・・・。

 

6.モハ27 (日方:1994年2月)

あと1か月少々で野上電鉄は廃止となり、会社自体が解散となります。この日はまだ、サヨナラムードではなく、マニアの姿もほとんどありませんでしたが、3月になるとマニアが押し寄せました。私もその一人ですが、なにやらマニアと電鉄が不穏な雰囲気になってきました。

第1170話 1994年野上:撮影禁止令布告(その3)

野上電鉄の廃止まで、残すところ1か月ほどでしたが、この日は意外にもマニア風の人を見ませんでした。いつもと変わらぬ日常を撮影できたので、それは結構なことですが、誰からも相手にされていない様で、逆に哀れに思いました。

 

1.モハ27 (動木~野上中:1994年2月)

こんどは撮影場所を少し下って、動木周辺の渓谷です。モハ27が再び現れました。この渓谷周辺は以前からさんざん撮影をしてたので、何か変わり映えを求めて、周辺を歩き回りました。お陰で動木の地形に詳しくなりましたが、何の役にも立ちません。

 

2.デ13 (動木:1994年2月)

ここは動木駅です。少し高い場所から見ると、模型を見ているようです。カーブしたホームの先には小さな鉄橋があり、猫の額の様な構内には、小さなき電変電所がありました。

 

3.デ13 (動木:1994年2月)

窮屈な駅に小柄なデ13がお似合いです。動木駅の周辺は狭い平地に住宅や農地が密集しており、独特の景観でした。最近はこのような地形を見ると、自然災害が気になってしょうがないのですが、この辺りは大丈夫なのでしょうか?

 

4.デ13 (動木~野上中:1994年2月)

動木駅を俯瞰した場所から渓谷をズームすると、先ほどのデ13が見えました。その傍らには無駄な投資に終わったコンクリート柱が転がっています。これは転用されたのか?

 

5.モハ27 (動木~野上中:1994年2月)

この日は、モハ27が日中の運用に残った様です。ならば、夕方までモハ27を追いかけたいところですが、天気予報は午後から雨。天気の良いうちに撮影です。

 

6.デ13 (動木~野上中:1994年2月)

新たな撮影場所を求めて、あちこち歩き回ったあげく、結局河原に降りてしまいました。この時期は水量が少なく、河原でも撮影が可能でしたが、この場所では以前にも同じような構図で何回も撮っています。そろそろ飽きてきたので日方に戻ります。

第1169話 1994年野上:撮影禁止令布告(その2)

早朝から下佐々周辺で撮影していたので、少し休憩をとるため撮影の合間に、終点の登山口へ行ってみました。

 

1.登山口駅 (登山口:1994年2月)

登山口は閑散としていました。この駅は、ここから紀伊山地の山間へ向かうバスの中継地ですが、電車が廃止されたらバスは海南へ直通するのか?しかし、この頃は道路が狭く、小型のバスしか通れない状況でした。

 

2.クハ101+クハ102 (登山口:1994年2月)

登山口の引き上げ線には、相変わらずクハが2両留置されていました。この2両は、朝の3連がなくなり余剰となったものの、まだ廃車ではありませんでした。もう十分に朽ちていますが、このまま終焉です。

 

3.モハ27 (登山口~下佐々:1994年2月)

再び下佐々に戻り撮影の続きです。こんどは本日初登場のモハ27ですが、2連ではなくまた単行です。この日は土曜日でしたが、乗客がいないので、やはり2連の本数を減らした様です。

 

4.モハ27 (登山口~下佐々:1994年2月)

まだラッシュ時間帯ですが、もう2連は来ない様でした。先程から、単行が3列車確認されましたが、このモハ27とデ11,デ13です。このうち、2両がラッシュ後の運用に残りますが、さあどれなのか?

 

5.デ11 (登山口~下佐々:1994年2月)

富山育ちのデ10形は、野上電車の中ではまだ若い1951年製でした。しかし、もう転職先はなく、保存の引き取り手もなさそうでした。同系車が34両も製造された電車でしたが、最後は加越能鉄道万葉線)に残ったデ5022だけとなってしまいました。

 

6.デ11 (下佐々:1994年2月)

下佐々を去るデ11です。こんな日常光景もあと1か月少々でした。

 

7.デ13 (竜光寺前~動木:1994年2月)

動木の切通しを行くデ13です。この辺はまともな道路も作れないほどの山峡の地形なので、鉄道用地もこのように削って作られました。野上電車がなくなると、小型バスしか交通手段がなくなりますが、道路事情も悪く、小型バスでは混み、時間通りに走れるのか、とても不便になりそうです。

第1168話 1994年野上:撮影禁止令布告

今回は、野上電鉄の廃止まであと1か月少々となった1994年2月下旬の様子です。この日も海南で前泊して、早朝の出庫バスで野上谷へ向かいました。

 

1.デ13 (下佐々~竜光寺前:1994年2月)

まずは、下佐々付近で撮影ですが、まだ完全に陽が昇っておらず、海南発の始発列車には陽が差していません。しかし、もうすぐ3月なので、畑の緑色は多少は春めいて来た様です。

 

2.デ11 (下佐々~竜光寺前:1994年2月)

 

そろそろラッシュ時間帯ですが、また単行です。廃止が近づいたので、運用車両も絞られて来たのか?

 

3.モハ26+モハ25 (下佐々~竜光寺前:1994年2月)

朝陽が昇った頃、ようやく2連が登場しました。元阪神のモハ20形コンビです。この2両は元気な様です。

 

4.モハ26+モハ25 (下佐々~竜光寺前:1994年2月)

でも、近づて来ると結構汚れています。廃止まであと1か月少々ですが、このまま我慢のようです。もう設備投資はあきらめた様ですが、電車の手入れもやめてしまったのか?

 

5.デ13 (下佐々~竜光寺前:1994年2月)

デ13は一見きれいな様に見えますが、これもよく見ると、所々塗装が剥がれています。廃止とは言え、最後は化粧直ししてもらいたいところですが、実態は会社解散とのことなので、電車たちは有終の美を飾ることは難しそうです。

 

6.モハ26+モハ25 (下佐々~竜光寺前:1994年2月)

ここは下佐々のミカン畑ですが、時期的にミカンは一つも実っておらず、なんとも殺風景です。先ほどの2連が日方へ戻って行きました。ガラガラです。でも、この先で混むのかも知れません。しかし、この時期になると、もう廃止のにおいがプンプン漂っていました。

号外:たまには新車を見に行こう!!(その3)

鶴見線の大川を訪問したあとは、まだ午前9時ですが、浜川崎経由で早々に帰宅です。・・・と、言うのも、ラッシュアワーを過ぎた鶴見線は、途端にローカル線になるからです。列車の本数があれば、海芝浦や扇町にも行ってみようと思いますが、乗った電車で戻らないと、あっという間に2~3時間経ってしまいます。よって、あまりにも時間的効率が悪いので諦めました。

 

1.E131系3連 (安善:2024年3月)

ここは安善です。この駅には在日米軍鶴見貯油施設に出入りするタンク車のヤードが現在もあり、浜安善までの貨物側線が分岐しています。かつては浜安善に行く途中の、運河に架かる安善橋から、夕陽を浴びる大川支線のクモハ12形を撮影したものです。その様子は、第808話をご覧ください。さて、安善から扇町行の電車に乗って、浜川崎を目指します。

 

2.浜川崎駅南武支線ホーム (浜川崎:2024年3月)

ここは浜川崎駅南武支線ホームです。なんともレトロな木造上屋です。鶴見線浜川崎駅のホームは道路を挟んで向かい側なので、一旦駅を出て乗り換えることになります。この時、Suicaのカードリーダーにタッチするとその時点で乗車料金が精算されてしまうので要注意です。

 

3.MC廃車体 (浜川崎:2024年3月)

そして、ここにはあのMCの廃車体がいまだに放置されていました。結局、このMCは浜川崎のオブジェになってしまった様です。

 

4.E131系3連 (浜川崎:2024年3月)

オヤッ、なぜここにE131系が・・・。もしかして、これから乗る南武支線の電車なのか?。でもこの電車は、回送のまま尻手の方へ走って行ってしまいました。

 

5.205系2連 (浜川崎:2024年3月)

そして、尻手方面からやって来たのは、なんと205系2連でした。もう205系はいなくなったのかと思っていましたが、どっこい1編成だけ生きていました。

 

6.205系2連 (浜川崎:2024年3月)

そう言えば、南武支線用に新潟からE127系が転属したと聞いていましたが?まあ、どうであれ少しでも古い電車なので大いに結構です。しかし、この電車もまもなく見納めなのでしょうか。たった1編成だけ残った205系ですが、尻手まで懐かしいモーター音を満喫できました。

 

7.E233系6連 (尻手:2024年3月)

ここは尻手駅です。いつも思うのですが、尻手とは意味深な地名です。以前は名鉄揖斐線の尻毛と双璧をなす駅名でしたが・・・。尻手から川崎まで一駅だけ南武線に乗車です。いつのまにか、南武線にはE233系が走っていました。なんだか、どこに行っても似た様な電車ばかりです。

 

8.クハE232-8001 (尻手:2024年3月)

この日の鶴見線新車見学はあっけなく終わってしまいました。私にとっては、新車よりも沿線の状況確認が目的だったのかも知れませんが、ある意味、これが最新のロケハンとなりました。いずれ、第2弾として、海芝浦や扇町へ行ってみようと思いますし、できれば浜安善や沿線の引き込み線の廃線跡を散策したいです。

おわり。

号外:たまには新車を見に行こう!!(その2)

久々の鶴見線大川駅ですが、ずいぶん前に息子を連れて休日の暇つぶしに大川を訪れたことがありました。ちょうど息子が電車に興味を持ち始めたころだったので、その時は鶴見線をただ乗るだけでしたが、すでにクモハ12形はなく、103系に代わって205系が走っていました。

 

1.クモハE131-1007 (大川:2024年3月)

その205系も引退してしまいましたが、まさか完全新製のE131系が投入されるとは思いませんでした。鶴見線に新車が新製配置されたのは、鶴見線の前身である鶴見臨港鉄道以来ではないでしょうか。さて、この日は、そのE131系を見に来たわけですが、最近の電車はみんな同じ電車に見えてしまいます。そう言えば、最近は若いアイドルグループの顔もみんな同じ顔に見えますが、それと同じことなのか。やはりこれは歳のせいなのでしょう!。

 

2.E131系3連 (大川~安善:2024年3月)

まずは大川支線の走行撮影です。乗って来た列車はすでに折り返して行ってしまいましたが、もう1本、朝の最終列車がまもなくやって来ます。その列車を近くの運河に架かる大川橋梁で撮影しました。その昔、この鉄橋でクモハ12形を撮影したことがありましたが、この向きで撮影したのはこれが初めてです。例によってスマホで撮影です。

 

3.クモハE131-1007+モハE131-1007+クハ130-1007 (大川:2024年3月)

そして、折り返しの時間を利用して、朝の最終列車を大川駅でじっくり撮影です。朝の大川駅では、順光で形式撮影ができます。大川駅は意外にも、車両の撮影にベストな場所でした。

ああ、これが旧国だったら!!。しかしながら、枯草の構内とE131系がなんともミスマッチです。そう言えば、ここは都会の秘境駅です。

 

4.E131系車内 (大川:2024年3月)

これは、まもなく大川を発車する鶴見行の朝の最終列車の車内です。当然ですがガラガラです。この電車で戻らないと、次の列車は夕方までありません。さて、独りぼっちの8:51発鶴見行の出発です。

 

5.鶴見線大川駅時刻表(2024年3月現在)

ちなみに大川駅の時刻表を示します。平日は9本の運行ですが、休日はたったの3本です。以前に比べて、ずいぶん運行本数が減ってしまいました。とても都会の電車とは思えませんが、実態は工場地帯の臨港線です。休日は乗る人がいるのか?。そのうち休日運休になるかも・・・。平日の最終電車は20:29発なので、まじめに残業をしていると最終に乗れません。まあ、電車はなくても、路線バスがありますし、武蔵白石駅は歩いて15分ほどです。

 

6.E131系車内案内表示器 (大川:2024年3月)

鶴見行の車内案内表示器を見ると、鶴見線は鶴見~扇町間の本線及び、浅野~海芝浦間と安善~大川間の支線で構成されているように思われますが、実態は浜川崎~扇町間も支線のような感じです。そして、この路線図には記載がありませんが、安善から浜安善までの貨物支線があります。

 

7.E131系3連 (安善~浅野:2024年3月)

大川から乗車した大川支線の朝の最終列車ですが、早々次駅の安善で下車しました。そして、乗って来た最終列車を安善駅のホームから見送り撮影したのがこの写真です。ここで浜川崎方面に乗り換えです。

 

8.鶴見線ワンマン化の案内ポスター(安善:2024年3月)

安善駅には、鶴見線ワンマン運転の案内ポスターが掲載されていました。ワンマン運転は3月16日から始まったばかりでした。国鉄の分割民営化から37年目にして、ようやく合理化達成と言ったところです。

つづく。