ローカル線の回顧録

1970年代後半から2000年頃までのローカル線の記録

第308話 1987年上信:貨物があった頃(その2)

雨の日の撮影ほど切ないものはありません。

しかし、貨物は平日しか走りません。せっかくの平日休暇なので、雨であろうが出向くしかありません。

 

1.1000系 (下仁田:1987年5月)

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雨の下仁田には、毎度の1000系が昼寝をしていました。

ご立派な車両なので、寝かせておくのがもったいないですが、さすがに日中の3連は走らす方がもったいないほど、乗客がいません。こんな雨の日は単行でも十分でした。 

 

2.デキ1石灰輸送列車 (下仁田:1987年5月)

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 雨の下仁田には貨物が発車を待っていました。

この日はトキ2両のささやかな編成で、当然電機も単機です。貨物の発車までまだ2時間近くあるので、雨のなかロケハンに出発です。

 

3.デハ251 (下仁田:1987年5月)

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 私が高崎から乗って来たデハ251は、ガラガラで高崎に戻って行きました。

このデハ250形は、6000系導入時に一緒に2両製造された両運車です。両運車なので最初は増結用とばかり思っていましたが、実態は閑散時間帯の主力車として単行でフル稼働していました。乗客は減少しても運行本数を確保しなければ、さらに乗客は減ってしまうので、経費節減のため、こういった単行運転できる車両が重宝される時代になってしまったようです。

 

4.デハ252 (下仁田:1987年5月)

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続いてやって来た列車は、単行のデハ252でした。デハ250形はまさにフル稼働でした。 

 

5.クハ304+デハ204 (赤津(信)~下仁田:1987年5月)

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 雨の降るなか、貨物列車の撮影場所を探して少し開けた桑畑まで歩きました。

ここは下仁田から20分程歩いた結構有名な撮影ポイントですが、これより先は険しい渓谷沿いを走るため、まともな撮影はできないので、ここで撮影することにしました。

しかし、デキがやって来るまでまだ1時間以上あります。雨なので座って休むことも出来ず、傘をさして立って待つしかありません。

 

6.クハ304+デハ204 (赤津(信)~下仁田:1987年5月)

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 デキを待つ間にやって来たのは、ローズピンクの2連です。天気が悪いのでせっかくのローズピンクがくすんで見えます。この車両は1000系登場以来、影が薄くなってしまいましたが、登場時はローカル私鉄にはもったいない程の立派な車両でした。

 

7.クハ304+デハ204 (赤津(信)~下仁田:1987年5月)

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 このあたりは、勾配区間ですがカルダン車は音もなく軽快に走って行きました。

デハ250形は2両しかないので、他の運用列車は2連のどれかですが、この時は元西武や6000系は現れず、デハ200形+クハ300形だけが運用に入っていました。

第307話 1987年上信:貨物があった頃

今回は1987年の上信電鉄です。

前回の訪問から3年後となりますが、辛うじて残っていたデキが牽引する貨物列車が見たくて、会社の研修先である長岡からGWで実家に帰る途中に高崎で途中下車をしました。

 

1.デキ1 (高崎:1987年5月)

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 この日はあいにくの雨でした。しかし貨物列車は平日しか走らず、この日がGWの谷間の5月1日で平日であったことから、雨ですが仕方なく下仁田を目指しました。

 

2.デキ1 (下仁田:1987年5月)

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 下仁田にはデキ1がいました。とりあえずこの日は貨物が走ることを確認できました。

しかし、雨が本降りです。この貨物列車をどこで撮影するか悩ましい状況でした。

 

3.デキ2 (高崎:1987年5月)

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 上信電鉄には、貨物牽引用の電気機関車が4両在籍していました。そのうちの3両は電化開業時にドイツのシーメンス社から輸入した1924年製の舶来機でした。

シーメンス社といえば、九州の三池炭鉱にも小型の凸型20tクラスの電気機関車が活躍していましたが、国内にはさほど導入された実績はなく、それ以外は非常にマイナーな国鉄ED57(→国鉄ED24)の2両と名鉄デキ1くらいです。

 

4.デキ2 (高崎:1987年5月)

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 上信のデキはB-Bボギーの凸型34.5t機で、ボンネットのサイド扉が非対称(点検扉が片側しか付いていない)が特徴です。

なぜか、2号機のみボンネットのサイド扉が逆というか、車両の向きが違います。

 

5.デキ3 (高崎:1987年5月)

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 このデキ1~3は下仁田~高崎間の石灰製品を輸送するため、平日に1往復の貨物が設定されていましたが、貨物量によっては重連運転となったり、走らない日もありました。

 

6.ED316 (高崎:1987年5月)

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 ED31は地味に南高崎~高崎間のセメント輸送に従事していました。

この車両だけは、シーメンス製のデキ1~3とは形態も生い立ちも異なり、その生い立ちは1923年石川島造船所・芝浦製作所製の元伊那電鉄デキ6です。その後国鉄に買収されてED316となり、1957年に上信にやって来ました。当初は凸型をしていましたが、上信に導入されてから、不思議な箱型に改造されました。元々は装甲車のような武骨な凸型機でしたが、近江鉄道のED31形とは兄弟機で、このED316は一番末っ子です。

ED316はデキに比べて非常に地味な存在でしたが、製造はデキよりも1年早く、国産電機黎明期の製品で、これも貴重な1両でした。この頃は電車と同じローズピンクに塗装されていましたが、晩年は焦げ茶色1色となり、さらに目立たない車両になってしまいました。

 

第306話 1988年弘南(大鰐):蘇る車歴の呪縛(その5)

花見輸送で賑わう大鰐線ですが、どの車両もかなりくたびれていました。

そして、この年から車両の置き換えが始まります。大鰐線の車両はいつも弘南線からお古が玉突きで転籍するパターンですが、今回は違うようです。なにやら、また東急から中古車がやって来るようですが、どうもステンレスカーとの噂が・・・。

 

1.津軽大沢車庫全景 (津軽大沢:1988年5月)

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 この写真は朝一番で撮影したものです。当然旧型車ばかりですが、この光景もそろそろ見納めのようでした。

 

2.モハ3404非貫通面 (津軽大沢:1988年5月)

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 モハ3400形は東急から2両だけ3600系に紛れて弘南線にやって来ました。

弘南線導入時は片運車でしたが、その後再両運車化され大鰐線に転属となりました。このモハ3404のこちらの妻面は元々運転台があった妻面ですが、貫通路を埋めて非貫通化されました。

 

3.モハ3404貫通面 (津軽大沢:1988年5月)

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 同じくモハ3404の貫通側妻面です。当初は片運車の連結面だったので大きく飛び出た幌枠が付いており、運転時に視界を妨げるので幌枠を一部切り欠いています。

 

4.モハ3403の車内 (津軽大沢:1988年5月)

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 モハ3403の車内はグリーンのシートと木製の袖仕切りが目を引きました。

 

5.モハ3403非貫通面 (津軽大沢:1988年5月)

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 モハ3403も再両運化時に運転台があった妻面を非貫通化しました。中央窓の上下にシルとヘッダーが通っており、モハ3404よりも非貫通ぽく見えます。

 

6.モハ106廃車体 (津軽大沢:1988年5月)

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 津軽大沢車庫の裏には元モハ106のダルマがいました。

 

さて、1988年5月時点の弘南鉄道の車両を少々ご紹介しましたが、この年の10月には大鰐線にいよいよステンレスカーの東急6000系7000系が導入されました。

東急7000系と言えば1980年代末期から大量放出されて、全国各地の地方鉄道が東急化する脅威を感じるほどあちこちに出現しました。さすがにステンレス車体は錆びず、塗装経費もかからないので、車両の老朽化にあえぐ地方鉄道にとっては救世主的存在だった様です。そしていまだに各地で活躍しており、つい最近も近鉄だった養老鉄道が、近鉄の中古車ではなく、VVVF化された東急7700形を導入しました。しかし、養老鉄道は製造から50年経ったこの車両をこれから30年使用するとのことですが・・・。ともあれ、弘南鉄道の方はそろそろ取り替え時のように思えます。

話しは戻りますが、結局この訪問が弘南鉄道旧型車の大活躍を撮影できた最初で最後となります。この続きである「花見客輸送」の状況は別途報告します。

第305話 1988年弘南(大鰐):蘇る車歴の呪縛(その4)

昨日の弘南線とは一転して、この日は晴天で、絶好の花見日和となりました。

しかし、花見どころではありません。4連が撮影できる絶好の撮影日和でもあり、気合が入ります。

 

1.クハ1612+モハ1122 (津軽大沢:1988年5月)

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 この日はほとんどの車両が運用に入りました。

車庫にいたのは検査入場で戻って来る車両くらいでした。

 

2.クハ1612+モハ1122、クハ1266+モハ2252 (津軽大沢:1988年5月)

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 津軽大沢は、車庫に隣接して駅があり、本線の列車が交換します。車庫で撮影している間も様々な列車が行き来して気になります。

 

3. クハ1266の車内 (津軽大沢:1988年5月)

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 クハ1266の車内です。基本的に西武時代と変わらぬ川造タイプの深い

屋根のアーチが特徴です。

 

4.モハ2233 (津軽大沢:1988年5月)

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 元武蔵野鉄道モハ235のモハ2233は快速としてスタンバイしていました。この車両は大鰐線では、クハ1613とコンビを組んでいましたが、この半年後に廃車されました。

 

5.モハ105 (大鰐:1988年5月)

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 モハ105は単行用なのでこの日はお休みです。しかし、この頃モハ105は普段もほとんど使用されていない様子でした。

 

6.クハ1613+モハ2233、クハ1610+モハ1121+クハ1267+モハ2253 (津軽大沢:1988年5月)

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花見客も増えてきたようで、4連が大活躍でした。

この当時、原型を留めた旧国が使用されていたのは弘南鉄道くらいしかありませんでした。

第304話 1988年弘南(大鰐):蘇る車歴の呪縛(その3)

弘南線の翌日は大鰐線です。

実はこの日の前日は泊まる宿がなくて難儀しました。どこの宿も弘前の花見客でいっぱいで、探し回ったあげく、休業日だった旅館に泊めてもらえることになり、野宿は免れました。

 そしてこの日、最初に向かったのは車庫のある津軽大沢でした。

 

1.クハ2251、クハニ1271 (津軽大沢:1988年5月)

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 朝っぱらから車庫を訪れた理由は、出庫車両をねらった形式撮影が目的でした。

しかし、この日は少し様子がおかしく、本来であれば車庫内に押し込まれているはずの車両がおらず、車庫内は閑散としていました。理由は花見輸送のため、朝から4連が2本も運用に入っていたからです。もしかすると、この日は終日4連が走るのではないかと期待し、とりあえず車庫内にいる車両の撮影を進めました。

 

2.クハニ1271の荷物室寄り車内 (津軽大沢:1988年5月)

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車庫には、買収国電のクハニ1271とクハ2251が並んでいました。

元伊那電鉄サハニフ403のクハニ1271の車内を撮影させてもらいました。 この車両は運転室の後部が荷物室となっており、荷物室と客室は窓のない仕切りがあるので、運行中は前方を見ることが出来ません。もともと国鉄時代まで荷物室合造の付随車でしたが、1958年弘南導入後に制御車化されました。また、クロスシート車でしたが、1965年にロングシート化されました。大鰐線ではモハ3403とコンビを組んでいました。

 

3.クハ2251 (津軽大沢:1988年5月)

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 こちらの汚れた電車は元富士身延モハ102のクハ2251です。元は2扉電動車でしたが弘南に来てから3扉化され、この当時は大鰐線に同型車が3両いましたが、この車両だけがクハ化されました。なぜか同型同士でコンビを組まず、この車両は元旧国のモハ1120とコンビを組んでいました。 

  

4.モハ2253 (津軽大沢:1988年5月)

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 この車両はモハ2253です。定期検査出場直後で車体の塗装もきれいです。この車両はクハ1267とコンビを組んでいました。

 

5.モハ2253の車内 (津軽大沢:1988年5月)

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モハ2253の車内です。この車両はもともと中距離用電車として製造され、もとは2扉クロスシート車でした。中央扉は弘南線導入後に追加されたものです。内装は当時の弘南鉄道標準である、室内白色塗装、エンジ色のロングシート、曲げパイプの袖仕切りなどの構成でした。

 

6.モハ108、モハ2252+クハ1266 (大鰐:1988年5月)

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 右側のモハ2252はクハ1266とコンビを組んでいました。

左側のモハ108は単行運転用の車両なので、多客時はお休みです。この車両は元京急400形の車体流用の窓が大きい開放感のある車両ですが、どういうわけか新車として導入された不可解な車両です。

 

第303話 1988年弘南(弘南):蘇る車歴の呪縛(その2)

今回の弘南鉄道弘南線は天気が悪く、夕方でもあり、お茶濁し程度の内容になってしまいました。走行写真は早々に引き上げて、平賀車庫に向かいました。

 

1.モハ3600形+クハ3700形+クハ3774 (境松~田舎舘:1988年5月)

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 3連のバックには雄大岩木山がそびえていますが、天気が悪くはっきり見えません。恐らく現在もこの景色は変わってないと思いますが、走っている車両は元東急7000系なので出向く気が起こりません。

 

2.クハ3776+クハ3675+モハ3601 (田舎舘~境松:1988年5月)

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 快速列車がやって来ました。この頃の弘南鉄道には、弘南線大鰐線共に快速運転がありました。この快速は当然停車駅が少なくその分所要時間が短いわけですが、途中で追い抜きはありませんでした。地方私鉄の快速運転は、列車本数の都合、通過となる駅の利用者にとってはサービス低下になるので、あまりはやりませんでしたが、弘南鉄道は拠点となる駅間の輸送が多かったのか、快速運転が長く継続されていました。しかし、快速運転は2006年頃になくなりました。

 

 

3.ED301 (平賀:1988年5月)

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 平賀車庫には、重鎮のED301が鎮座していました。写真には有蓋貨車も写っていますが、すでに貨物輸送もなく、この貨車はいったい何なのか不明です。ところで、車歴の呪縛で悩む中、このED301は書類上、三井三池からの譲渡車となっていますが、実は新造後にメーカーから直接弘南に来たと言われるいわくつきの車両です。注文流れのような感じもしますが、実態はよくわかりません。

 

4.モハ3613 (平賀:1988年5月)

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 モハ3613は、モハ3600形のなかで旧態然とした車体をもつグループに属しますが、そのなかでも車体を新造したのが新日国工業という当時車両の整備や更新を専門に行う業者だったので、少し外観が異なりました。

この車両も旧国のクハ65096の台枠のみを流用した戦災復旧車です。

 

5.クハ3778 (平賀:1988年5月)

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 クハ3778は、前面雨樋がアーチ形状である日本車輌製の元東急3600系です。この車両も元国鉄木造客車のナハ22068の台枠のみを流用した戦災復旧車です。

 

6.モハ3616 (平賀:1988年5月)

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モハ3616も前面雨樋がアーチ形状である日本車輌製の元東急3600系ですが、この車両は東急電鉄の手持ち部品を流用して、車体は台枠も含めて完全新製です。車体新製と言っても、見た目は他の同形車(元の車両の台枠流用)と全く見分けがつきません。

 

毎度思うのですが、台枠だけを流用しても以前の車両の名義を引き継ぐ慣習が話をややこしくしています。
この慣習は恐らく、昔の木造車が車体の上回りが老朽化すると台枠だけ残して上回りだけを更新し、あたかも同じ車両と言い張り、面倒な新車の設計認可をパスする手抜き手段として横行したことの名残なのでしょうが、この様な手抜き行為は、中古車両の導入時には結構当たり前に行われていました。

いずれ話題に挙げようと思いますが、近江鉄道など平成の時代において、西武から譲受した中古の全鋼製カルダン車に明治時代の車両の改造名義を踏襲したケースがあり、しかも車歴はグチャグチャです。
車歴の呪縛は弘南にとどまらず、まだまだ続きます。

第302話 1988年弘南(弘南):蘇る車歴の呪縛

1988年のGWは東北地方のローカル私鉄早回りを行いました。

比較的天気にも恵まれて、栗原、南部縦貫、十和田観光、津軽を巡り、辿り着いたのが弘南鉄道でした。

弘南鉄道には、この1年前に初訪問を行いましたが、在籍車両の複雑な車歴に翻弄されて車歴の呪縛に掛ってしまいました。いくつかの車歴の謎を解明できないまま、再びニ度目の訪問となりました。

この日は朝から津軽鉄道で撮影を行い、午後は曇ってきたので早めに引き上げて弘南鉄道を目指しました。

 

1.キハ2220 (川辺:1988年5月)

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 先ずは、川辺から乗車した黒石線のキハ22形です。この車両は素性がはっきりした素直な車両でしたが、正直言ってどうでも良い車両でした。

しかし、この黒石線は国鉄赤字ローカル線を民間である弘南鉄道が引き取ったことに意義がありました。

 

2.キハ2220 (川辺:1988年5月)

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黒石線は弘南鉄道になっても、相変わらずガラガラでした。

この日の私は、五所川原から黒石を目指していたので、わざわざ弘前まで行かなくてもこの路線で短絡できたので大変便利に感じました。しかし、そのような利用はどの程度需要があったのか?もし、需要があったらJRがこの路線を手放すわけがありません。

キハ22形に乗り、黒石に着いたのはもう夕方でしたが、沿線撮影にトライです。弘南線に乗り換えて、とりあえず境松に向かいました。

 

3.クハ3776+クハ3675+モハ3601 (境松:1988年5月)

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 弘南線の走行撮影は今回が初めてでした。来る列車のナンバーを見ると、車歴の呪縛が蘇ります。

このクハ3776は、言わずと知れた元東急3600系ですが、前面雨樋の優雅なアーチ形状が特徴の日本車輌製のグループです。しかし、その前身は国鉄の木造客車ナハフ14516の台枠流用と言われ、その名義を引き継ぐ車歴上厄介なヤツです。

 

4.モハ3600形+クハ3700形+クハ3774 (境松~田舎舘:1988年5月)

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3連を真横から狙ってみました。弘南線は、McTcTc の3連が基本です。

車両が遠くて、車号がはっきりしませんが、右端のクハ3774だけは明確です。

 

5.クハ1614+クハ3779+モハ3614 (田舎舘~境松:1988年5月)

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 先頭のクハ1614は弘南線では少数派の元旧国です。かつては同形の仲間と4両が弘南線で活躍していましたが、その後3両は大鰐線に転じ、なぜかこの車両だけ居残り、元東急3600系に混ざって孤軍奮闘です。

 

6.モハ3614 +クハ3779+クハ1614(境松~田舎舘:1988年5月)

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 先頭のモハ3614も前面雨樋がアーチ形状の日本車輌製元東急3600系ですが、この車両は元々旧国のモハ40052を戦災復旧したものです。とは言っても、台枠流用のみで、車体は1952年新製でした。