ローカル線の回顧録

1970年代後半から2000年頃までのローカル線の記録

第389話 1988年関東(常総):いやな予感!

1988年の年末年始は長期出張中の新潟から東京の実家に帰省しましたが、暇だったので元旦から関東鉄道常総線の撮影に出向きました。

ところで、関東鉄道常総線は既にくどいくらい本ブログで話題に挙げていますが、いつも車両の形式写真ばかりで、いままで走行写真をまともに投稿していませんでした。実は常総線の車両が多彩過ぎて、形式写真を撮ることに専念していたため、これまで全く走行撮影をしていなかったからですが、今回はいよいよ走行写真の投稿となりました。しかし、たいした写真ではありませんので、悪しからずご了承願います。

 

1.キハ721+キハ813 (小絹~水海道:1988年1月)

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 この日は、初めて常総線の走行写真を撮るため、いきなり水海道には行かず、一つ手前の小絹で下車して、撮影しながら水海道を目指しました。

この日は元旦なので、ほとんどの車両は車庫で昼寝です。よって、元国鉄の機械式気動車だった面々は走っていません。概ねキハ0形かキハ310形しか走っていないだろうと思っていましたが、キハ721+キハ813の凸凹コンビが走っていました。このコンビは、常総線ではまだ若年層ですが、相当なくせ者です。詳細は第154話をご覧ください。

 

2.キハ002+キハ001+キハ805 (小絹~水海道:1988年1月)

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 小絹から水海道までの1駅間は4.5kmもあります。列車は日中ほぼ30分間隔で走っていたので、どちらかの方向へ15分程度の高頻度でやって来ました。複線化も実現し、こんな高頻度運転なのに電化できないとは、不経済的極まりないというか、常総線の悲しい定めです。

 

3.キハ802+キハ0形2連 (小絹~水海道:1988年1月)

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 しかし、ほとんどの列車がキハ0形やキハ310形なので面白くありません。幸いキハ800形を増結して3連だったのでなんとか我慢できました。

キハ0形も先頭にキハ800形が増結されると、撮影に気合が入ります。バス窓2扉車と通勤電車タイプの連結は奇妙でした。

 

4.キハ804+キハ310形2連 (小絹~水海道:1988年1月)

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今度も同じ列車かと思ったら、キハ804の後ろはキハ0形ではなくキハ310形でした。まあどちらも同じような車両なのでどうでもよいですが、オール広告車なのがイマイチです。

 

5.キハ301+キハ805+キハ701 (小絹~水海道:1988年1月)

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 続いてやって来たのは、何と筑波鉄道から移籍してきたキハ301を先頭にした凸凹3連です。キハ301は一年前はまだ筑波鉄道に居ました。筑波鉄道が1987年3月末で廃止となり、保有されていた車両で唯一このキハ301だけが常総線に転じて生き延びました。

しかし、何も改造されることなく常総線に紛れ込み、まったく違和感ありません。

ところで、この時キハ301は一匹狼でしたが、その後大変なことになります。

 

6.キハ004+キハ003+キハ800形 (小絹~水海道:1988年1月)

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 さて、この写真の右側に何やら工事中の線路らしきものが写っています。

この場所は現在の南水海道=車両基地です。この時は新しい駅でも出来るのかと思った程度でしたが、まさかここに車両基地が移転するとは思いませんでした。そして、この場所では車両基地が出来る前に、印象に残る出来事がありました。

 

第388話 1993年広島:ボロ電激変そして再会!!(その8)

紙屋町からプラプラ歩いて己斐まで来ました。

ここはかつての私のホームタウンです。3005編成もそうですが、まだ見慣れた建物も健在で、11年前にタイムスリップです。

 

1.3005編成 (己斐:1993年7月)

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 かつて己斐は市内線の終点であり、宮島線の起点でもあり、駅名は律儀に市内線側が「己斐」で宮島線側は「西広島」と、それぞれ名乗っていました。最近取り壊されてしまいましたが、駅には広電のデパートも併設されており、ちょとしたターミナル的な存在でした。

この時点、すでに宮島線専用の高床車は引退しており、全ての車両が低床タイプになっていましたが、一部の宮島線内折返し列車用に、かつての高床車のホームがかさ下げされて残っており、宮島線のターミナルだった名残が残っていました。

 

2.3501編成 (西広島:1993年7月)

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 そのかさ下げホームに「元祖軽快電車」がいました。久々の再会にもかかわらず意味深の回送です。

また故障?

違います。これは先ほどまでギャンブル電車として宮島競艇に通うギャンブラー達を無料で送り迎えして一仕事終えたので、これから車庫に戻るための回送です。

しかし、元祖軽快電車は完全にギャンブラー達のアッシー君になっていたようです。

 

3.3002編成、2004、2006 (荒手車庫:1993年7月)

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 ついでに、荒手車庫まで足を延ばしました。

荒手車庫には11年前を彷彿するメンバーが集結していました。これらの車両はまだまだ現役でしたが、新型の軽快電車が増えたので、ラッシュ時の限定運用となっており、昼間は車庫で昼寝です。写真の左端にはドルトムントも・・・。

 

4.3001編成 (荒手車庫:1993年7月)

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 3001編成は少々傷んでいましたが、何と1年前の1992年に廃車となっていました。3000形のトップナンバーは廃車もトップでした。こういうのを見ると、時の流れを感じます。

右わきに1090形の廃車体が写っています。解体待ちか、保存目的なのか?しかし、これが最後まで残った高床車でした。

 

5.2001 (荒手車庫:1993年7月)

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 2000形の2連化で仲間外れとなった2001も健在でした。2001は、この時点でもう19年間も車庫内でゴロゴロしています。まさに荒手車庫の主です。状態も非常に良く、このまま「お宝」になってしまう感じでした。

 

6.1977年頃の広電路線マップ

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手元に1977年頃の路線マップがあったのでご紹介します。文字が小さいので少し拡大して見て頂ければと思います。

このマップは主要電停に置かれていたもので、イラストの幼稚っぽさが誰かの手作りの様で大変好ましく、国鉄の駅はまったくの度外視ですが、大変わかりやすいです。

これは「電車運転系統案内図」なので仕方ありませんが、観光地も適当です。このマップを見る限り、広島は観光地ではなさそうに見えますが、そんなことはありません。しかし、このマップにチョイスされた観光地?が意味不明です。例えば気象台。このマップを見て気象台に行く人がいるのか?その左の総合グランドは、私の知る限り観光地ではありませんし、電車では行けません。そして、その下の広島空港ですが、この飛行機マークもどうでもいい感じで描かれていますが、当時の広島空港はそこにありました。滑走路が短く、東亜国内航空のYS11が離発着していましたが、霧でしょっちゅう欠航していたような・・・。

この路線マップは、改めて見ると突っ込みどころが満載です。

運賃欄を見ると、この頃は市内線が60円(白島線は40円)でした。時代を感じます。駅名も宮島線の「荒手車庫前」、「魚市場」などまだ旧名です。

 

7.1993年頃の広電路線マップ

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そしてこのマップは、1993年頃のものです。多少イラストに色気がでてきましたが、相変わらずの幼稚っぽさです。ようやく川の名前が入り、地図らしくなりました。そして気象台が立派になっています。広島に初めて観光に来た人には、世界的に有名な原爆ドームや現在世界遺産の宮島厳島神社よりも、何もないただの公園(失礼!)の比治山の方が大観光地かと思われてしまいそうです。で、広島空港ですが、いつの間にか広島西飛行場になっています。この時点で広島空港は西条の山奥に引っ越してしまい、残った跡地は空港ではなく飛行場に落ちぶれていました。マップには飛行機の行き先が記されていますが、当時は誰が利用するのか、小松行きが飛んでいました。

この頃の市内線運賃は何と2倍以上UPの130円(白島線は90円)になっていましたが、まあ当時はこんなもんでしょうか。宮島線の駅も現在馴染みの駅名となっており、若干駅数が増えています。

このマップは、その後も微妙に進化し、英語バージョンも完備されて健在ですが、現在は運転系統も変わり、このマンガチックな内容から「世界の広島」に相応しい?内容に変わってしまいました。

さて、「久々の広島」はこのくらいにしておきます。その後、私は仕事の関係で、ほぼ毎週東京から広島へ通うことになり、広電との腐れ縁はまだまだ続きます。

 

第387話 1993年広島:ボロ電激変そして再会!!(その7)

1993年当時の広電は宮島線がLRT化されて大激変してしまいましたが、それでも市内線にはかつてのボロ電時代の車両が活躍しており、懐かしさも相まって写真を撮りまくってしまいました。

 

1.652 (十日市~本川町:1993年7月)

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 広電を語る上で大変重要な、原爆の生き証人的存在の652がやって来ました。

この被爆車両である650形は奇跡的に4両が現存していました。この車両は歴史的に見ても後世に残さなければならない車両です。そのことは当事者である広電関係者が一番精力的に対応されており、650形は徹底的な改修と冷房化も図られてイベントではなく、毎日普段の運用に入っていました。

 

2.553 (江波:1993年7月)

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570形を追い掛けて行った江波車庫に、553がいました。

550形は広電初の高性能車になり損ねた車両ですが、宮島線直通車にもなり損ねた残念な車両でした。トップナンバーの551は間接制御の試作車として1955年に登場しましたが、時期尚早でご多聞に漏れず制御系の故障が多く、直接制御の吊掛車に戻されてしまいました。よって、全車5両が直接制御の吊掛車で増備となり、先に導入された500形とほとんど変わらない車両になってしまいました。

登場時はそろそろ宮島線直通運転の計画が具体化したころで、この550形を使用して臨時の直通運転が行われ、晴れて初代直通車になろうかという時期に間接非自動制御の850形(後350形)が登場したため、その座を降ろされてしまいました。非常にあわれな車両ですが、1993年当時は、焼失した552を除く4両が健在で、宮島線直通車としての認可も継続されていました。ちなみにパンタグラフを搭載していますが、これが宮島線直通車の名残です。

 

3.352 (本川町:1993年7月)

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 352がやって来ました。この車両は市内線電車に成りきっていましたが、実は元宮島線直通車で、先輩の550形を差し置いて、初代直通車として一時は2000形と同じクリームとピンクの直通車色に塗られた時期もあったそうです。よって、パンタグラフを搭載し、間接非自動制御の車両ですが、2500形の増備でそのまま市内線に転じました。元は850形と称していましたが、1971年に改番されて350形となりました。たった3両の小世帯ですが、3両共健在でした。この車両も宮島線直通車としての認可が継続されており、パンタグラフ搭載車です。

 

4.601 (猿猴橋:1993年7月)

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 600形は西鉄北九州市内線から来た13m級の大型車です。当初は3両在籍しましたが、当初の601は事故廃車となり、2両が健在でした。ところで、この車両の塗装色ですが、腰回りはもっと焦げ茶っぽい色だったように思いましたが、この色は?

 

5.601 (猿猴橋~広島駅前:1993年7月)

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 600形は元西鉄北九州市内線500形でした。戦後の運輸省規格型路面電車で、大阪市電だった750形とも似た形態です。オリジナルは3扉でしたが、西鉄時代に前後2扉化され、広電入線時に前中2扉に変更されました。古い車両ですが、大型で輸送力があったので、冷房化もされて750形ともども頑張っていました。

 

6.601 (広島駅前:1993年7月)

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600形の前面は750形に比べて面長でした。車体幅が8㎝ほど狭かったのと、車端が絞られて前照灯がおへそだったので、750形ほどワイルド感がありません。

第386話 1993年広島:ボロ電激変そして再会!!(その6)

1993年時点、神戸市電京都市電の中古車は健在であることを確認しましたが、大阪市電を忘れてはいけません。

 

1.904 (福島町~西観音町:1993年7月)

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 広電にはかつて、36両もの元大阪市電が在籍していました。(宮島線直通車を除く)

そのうち、元大阪市電2600形だった900形は14両在籍し、1993年時点では全車が健在でした。この車両は大阪市電のニセPCCだった吊掛車ですが、1952年製で比較的新しい車両でした。大阪時代にワンマン化されており、広電に移籍した1969年当時はまだ広電がワンマン化されていませんでしたが、この車両の導入をきっかけに広電もワンマン化が開始されました。

 

2.913 (江波~舟入南町:1993年7月)

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 900形は冷房化された以外はほとんど大阪時代のオリジナルを維持していました。

この車両も以前は、前面の窓下に菱形の黄色い警戒塗装が施されていましたが、それがなくなり、大阪市電そのものになりました。

 

3.905 (福島町~西観音町:1993年7月)

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 さて、広電と言えば派手な広告車両を思い出しますが、1993年当時も相変わらず奇抜なのがいっぱいいました。思わずシャッターを止めたくなりましたが、久々の再会なのであえて撮りました。

 

4.772 (天満町~小網町:1993年7月)

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 老体に強烈な塗装ですが、有名な缶コーヒーの広告車でした。

ところで、この772は元大阪市電で一時は22両も在籍した750形の生き残りです。この車両の導入で広電は小型車を一掃するほどの大所帯でしたが、さすがに老朽化が進み1993年時点で7両になっていました。しかし772は、しっかり冷房化されており、サービス上は他車と遜色ありませんが、日中はほとんど見かけなくなっていました。

 

5.1153 (天満町~小網町:1993年7月)

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 この車両は元神戸市電だった1150形です。これも強烈な紅白塗装ですが、有名なコーラの広告車でした。コーポレート・カラーなのでしょうが、もうちょっと何とかならなかったのか?

ところでこの車両は、元神戸市電の最新鋭だったはずの「カルダン車崩れ」です。軽快電車よりも一世代前の、時期尚早の悲劇のヒーローだったことを忘れてはいけませんが、広電ではそんなことを知る由もなく、当初から吊掛車として1971年に7両が導入され、1993年時点も全車健在でした。

 

6.1152 (紙屋町~立町:1993年7月)

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 かつての優秀車両も屋根まで真っ黄色!!。

現在なら「幸せの黄色い電車」でしょうが、ちなみにこの電車は殺虫剤大手の広告車でした。害虫ばかりか人も寄り付かない程のインパクトです。

 

7.504 (小網町~土橋:1993年7月)

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 ようやく広電オリジナルの500形に会えましたが、これも全身真っ黄色だったので、また殺虫剤かと思ったらタウンページでした。しかし、500形にこの塗装はどうなのか?

第385話 1993年広島:ボロ電激変そして再会!!(その5)

この日は、広島に住んでいた頃を思い出し、路面電車の追っかけに夢中になってしまいました。路面電車の追っかけには自転車があると大変便利なのですが、なければ歩くしかありません。7月の広島は梅雨が明けて暑く、汗だくで電車を追い掛けました。

 

1.584 (江波~舟入南町:1993年7月)

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レトロな584を追って江波まで来てしまいました。江波には市内線の車庫があります。かつて江波車庫では、改造中の3000形を見せて頂いたことがありました。その頃の江波車庫には570形がたくさん配属されており、うんざりした記憶がありますが、たったの3両になってしまうとないがしろにはできません。

 

2.

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 3両目の587は、本川町でとらえることができました。陸橋の上からの撮影なので、屋根上が良く見えます。古い車両ですが屋根上の冷房装置とSIVは1987年に搭載した新しいものでした。

この車両の生い立ちは昭和初期にまで遡りますが、たった3両とはいえ、こんな古い車両を冷房化して営業投入していた広電には路面電車博物館の意地が伺えました。

 

3.584、1915 (十日市~本川町:1993年7月)

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 神戸市電京都市電のすれ違いです。こういう光景を見ていると、11年前が蘇りなんだか安心します。

 

4.1914 (紙屋町~立町:1993年7月)

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1900形は元京都市電です。京都から大挙して15両がやって来ましたが、1993年当時は全車バリバリの現役でした。広電に導入時、各車に京都にちなんだ愛称がつけられ、その後どの程度定着したか分かりませんが、愛称は継続していました。

1900形は京都時代からワンマン化されていたので、広電への導入に際してさほど改造はされませんでしたが、毎度の前面行き先表示大型化と、中扉の反戸袋側に位置する吹き寄せ部に乗務員用の小窓を設置しています。しかし、塗装は京都時代のままで、外観もほとんど変わっていないので、誰が見ても京都市電そのものです。

 

5.1903 (紙屋町~立町:1993年7月)

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 1900形は全車1957年製で、比較的新しい部類の車両です。この類の中古車が大量に入手できたことは、広電にとっては「棚から牡丹餅」だったはずです。

そして、1900形は冷房化も早かったです。1980年には2両が床下搭載の直流駆動式の冷房装置を試験採用したのが冷房化の先駆けとなりました。しかし、直流駆動式はこの2両だけに終わり、続く3両は分散式を2台搭載するタイプとなりました。写真の1903は分散式クーラー搭載車です。

 

6.1903 (天満町~小網町:1993年7月)

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 広電前行の元京都市電が来ました。

広電前とは、なにそれ?と思われる方も多いかと思いますが、これは宇品方面に行く3系統の電車で、途中にある「広電本社前」止まりの電車です。広電本社前には市内線電車の千田町車庫があり、広電前行の電車はほとんどが入庫します。

 

7.1914 (本川町~原爆ドーム前:1993年7月)

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 1900形の冷房装置の話題に戻りますが、分散式も3両のみに終わり、結局残りの10両は集中式となりました。写真の1914は集中式のクーラー搭載車です。

さすがに、1990年代になると路面電車にも冷房装置が当たり前になってきました。この当時広電で非冷房だったのは、予備車的存在だった元大阪市電の760形の一部とイベント車くらいで、運用車はほぼ100%が冷房車でした。

第384話 1993年広島:ボロ電激変そして再会!!(その4)

土橋から己斐にかけては、かつて私が通っていた高校が近くにあり、馴染みの場所であり、懐かしい場所でもあります。

高校卒業間近の1980年代初頭に、この沿道で当時のボロ電をよく撮影したものです。その頃の様子は第90話~第98話をご覧ください。

 

1.3703編成 (小網町:1993年7月)

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再び軽快電車モドキの登場です。その後ろには宇品からはるばるやって来た元京都市電が続行です。

ここは小網町電停です。広電では珍しく、ホームが無い道路に白線を引いただけの電停です。広電は軌道敷内の自動車の通行が禁止されているので、この様な狭い場所にホームを作ると自動車が通れなくなってしまうのでこうなってしまいます。

  

2.3802編成 (天満町~小網町:1993年7月)

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この区間は、宮島線直通車と己斐~宇品間の系統が走るルートなので、列車本数も多く、結構バラエティーに富んだ車両を見ることが出来ます。そしてなにより自動車が少ないので撮影には好都合です。ただし、夕方は己斐寄りの正面から西陽が射すので、どうしても正面がちの撮影になってしまいます。

 

3.3905編成 (天満町~小網町:1993年7月)

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 宮島線から直通の軽快電車が立て続けにやって来ます。かなりの頻度です。

広電の己斐~宮島間は完全にJR山陽本線と並行かつ競合していました。JRも都市型ダイヤを採用後、駅数も増やして強烈なデッドヒート状態になっていましたが、広電の強みは繁華街と直結していることです。

 

4.582 (小網町~土橋:1993年7月)

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新車の増備が続く広電でしたが、「路面電車の博物館」は健在でした。570形582は元神戸市電の車両ですが、神戸時代の塗装のままで活躍していました。前面行き先表示の大型化と冷房化が神戸時代から変化していますが、その他はほぼオリジナルを維持していました。以前は前面の前照灯まわりに菱形の黄色い警戒塗装が施されていましたが、それが消されてよりオリジナルに近づきました。

 

5.582 (天満町~小網町:1993年7月)

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この付近は、広島市西区の下町で、いまだ昭和の匂いがプンプンする一帯ですが、この街にはハイカラな軽快電車ではなく、やはり570形の様なレトロな車両が似合います。

 

6.584 (原爆ドーム前~紙屋町:1993年7月)

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570形は一時は17両も在籍していましたが、古い車両なので1993年当時はたったの3両にまで減ってしまいました。在籍していたのは、582,584,587でいずれも冷房化されていました。570形の車歴については、第92話をご覧ください。

レアな車両になってしまいましたが、稼働率は結構高く、主に3系統(己斐~宇品)と6系統(広島駅~江波)で活躍していました。

第383話 1993年広島:ボロ電激変そして再会!!(その3)

私にとって、広電に対する11年間のブランクは大きく、その間の変貌には正直ショックが伴いました。それは宮島線の高床車の消滅です。

私が広島を離れた、1982年3月時点ですでに宮島線の高床車は、元阪急の中古車である1070形、1080形とオリジナルの車体を持つ1090形、1061くらいでしたが、その後のこれらの車両を見届けることなく宮島線LRT化が進んでしまいました。すぐ近くまで来たこともありましたが、広電まで足を延ばさなかったことに後悔しています。

さて、1993年当時の広電の新車の話題はラストの3900形です。

 

1.3904編成 (福島町~西観音町:1993年7月)

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 1993年時点の広電には2代目のVVVF車となる3900形(注1)が既に5編成在籍しており、まだ増備の途上で、最終的には8編成となります。

 3900形は3800形のモーターを60kwから85kwに強化した以外は性能面では3800形同等ですが、フロントガラスが大型化され、内装もカラーリングを変更していました。

この時点で、VVVF車は14編成に達し、広電は軽快電車主体の都市交通になっていました。

2.3903編成 (本川町~原爆ドーム前:1993年7月)

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 (注1)3900形の車歴

・広電3901,3902:1990年アルナ工機製(1次車)

・広電3903:1991年アルナ工機製(2次車)

・広電3904,3905:1992年アルナ工機製(3次車)

・広電3906:1995年アルナ工機製(4次車)

・広電3907,3908:1997年アルナ工機製(5次車)

さて、以上が当時の広電の新車と言われたラインナップですが、これらの新車が導入された以降の旧来のボロ電たちはどうなったかと言うと、宮島線の高床車以外はほとんど残っていました。

その理由は、宮島線が完全LRT化されたため、市内線直通用の3連接車が多量に必要となったことから、一挙にモドキを含む軽快電車が導入されましたが、旧来の直通車も捨てるわけにはいきませんでした。なにしろ、市内線の輸送力確保から、市内線にも連接車や連結車が必要となり、旧来の直通車も廃車できないほどの輸送需要になっていたからです。

広島という街は、山陽新幹線開通以降、人口が爆発的増加の一方で、このような事態が生じました。

それではここからは、市内線を歩きながら撮影した当時の旧来車両の話題に入ります。

 

3.2003+2002 (小網町~土橋:1993年7月)

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紙屋町から己斐に向かって歩きました。土橋から観音町へ抜ける軌道敷は11年前とほとんど変わらず同じ佇まいでした。交通量も少なく、石畳みが続きます。

2000形2連がやって来ました。ボロ電時代の車両との再会です。しかし何か違和感が?

前面の行き先表示の大型化と前照灯の位置が変化しており、屋根上には冷房装置が載っていました。しかし、2000形は予備車となった2001を含む全車が健在で、相変わらず宮島線と市内線の直通運用に充当されていましたが、やはり軽快電車が増備されたためラッシュ時のみの運用が多い様でした。

 

4.3005編成 (小網町~土橋:1993年7月)

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3000形で唯一西鉄福岡市内線の1100形から改造された3005編成がやって来ました。3000形もまだまだ健在でした。この3005編成は登場時は屋根周りのピンク色が側窓の上縁まで塗られており、やぼったい塗り分けでしたが、他の編成同様になり、スッキリした感じです。

 

5.3101編成 (十日市~本川町:1993年7月)

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どこかで見たような?、初めて見る車両が来ました。
これは、元2連接の2500形を3連接化した3100形(注2)です。私が広島に住んでいた頃にはまだ存在していなかった車両です。2500形は両運車の2000形を2連接化したような車両で宮島線直通車として広電の往年のスター的存在したが、徐々に輸送力が乏しくなってきたため、1985年~1986年にかけて2500形5本を3100形3本に改造したものです。

 

6.3102編成 (小網町:1993年7月)

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 (注2)3100形の車歴

・広電3101A←広電2501:1961年ナニワ工機
・広電3101C←広電2502:1961年ナニワ工機
・広電3101B←広電2505:1962年自社製

・広電3102A←広電2503:1961年ナニワ工機
・広電3102C←広電2507:1964年自社製
・広電3102B←広電2504:1961年ナニワ工機

・広電3103A←広電2509:1964年自社製
・広電3103C←広電2508:1964年自社製
・広電3103B←広電2510:1964年自社製

     廃車←広電2506:1962年自社製

 

7.3101編成 (福島町~西観音町:1993年7月)

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3100形は改造にあたり、2000形と同様に前面の行き先表示大型化と前照灯の腰部移設を行い、冷房化されました。3連接化されて輸送力も向上し、軽快電車や3000形に混ざって運用されていました。