ローカル線の回顧録

1970年代後半から2000年頃までのローカル線の記録

第558話 1991年日立:本当の合理化は車種統一にあり!(その3)

この時点で、日立電鉄の車両は営団銀座線の2000系に全車置き換わるという噂が出ていました。それまで営団の車両が地方鉄道に譲渡された例がなく、営団2000系は第三軌条方式で標準軌です。よって、パンタグラフの設置や、狭軌台車への振り替えが必要となり、しかも両運車ではないので、単行のワンマンカーはどうするのか?、すべて2連になるのか?、車種統一されれば車両数は減るのか?などなど疑問が浮上しました。

 

1.モハ10 (鮎川:1991年4月)

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 モハ10は、当時2両いた日立電鉄自社発注のモハ9形の1両です。この日はモハ9が運用されており、モハ10はお休みです。モハ9とモハ10は同じ車両ですが、これも貫通面の方向が異なり、モハ10は常北太田寄りが貫通になっていました。

 

2.モハ11検査入場中 (鮎川:1991年4月)

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 この日、定検入場だったモハ11です。この車両は営団銀座線1200形の注文流れとの話もありますが、実態は戦後の車両不足の時期に、親会社の働きで営団向けに完成していた2両を横流ししてもらったようです。しかしこの車両も、営団2000系に置き換えられます。

 

3.モハ1004+モハ1002+サハ1501+モハ1005 (常北太田:1991年4月)

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 常北太田には4連固定編成の1000形がいました。普段は朝のラッシュ後は、鮎川で夕方のラッシュまで昼寝ですが、この日は休日だったので、4連はお休みです。

 

4.モハ1005+サハ1501+モハ1002+モハ1004 (常北太田:1991年4月)

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 この4連も、車両の置き換えでどうなるのか気になりました。営団2000系の2連+2連で4連が運行されるのか?。

結局、この4連は営団2000系導入後もしばらく残りました。それは、車両の置き換えが数回に分けて実施されたため、旧型車はしばらく残ったことと、やはりこの4連はラッシュ専用の特異性のため、残されたようです。しかし、輸送需要の低迷により、4連の必要性がなくなり、結果としてこの4連の運行は車両と共に1993年になくなりました。

 

5.モハ1008 (常北太田:1991年4月)

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 常北太田の隅っこに、元荷電のモハ1008がいました。この車両は小田急モハ1形を前身とする車両で、同型の仲間が3両日立電鉄にいましたが、この車両だけコンビを組む相手がおらず予備車的存在でした。しかし、予備車のまま車体も傷んでおり、復活することなく、このまま廃車されました。

さて、4年ぶりとなる日立電鉄訪問でしたが、一通り在籍車を確認した結果、全ての車両が4年前から変わっていませんでした。しかし、雑多な旧型車は年内で見納めとなるかも知れず、その後が非常に気になりましたが、車両の置き換えは段階的に実施されたので、一気に気が緩み、その後の訪問は2年後となりました。その様子は後日お伝えします。

 

第557話 1991年日立:本当の合理化は車種統一にあり!(その2)

案の定、この日の日立電鉄は単行しか走っておらず、連結車は全て車庫で昼寝でした。やはり日立電鉄の撮影は、平日の朝でないとダメです。

日中は大多数の車両が車庫で昼寝となり、留置場所によっては、車両が詰め込まれており、まともに撮影も出来ないこともありました。

 

1.クハ2504+モハ1009 (鮎川:1991年4月)

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 鮎川の留置線では、幸い列車同士が離れて止まっていたので何とか撮影できました。

ところで、プリントするまで気が付きませんでしたが、写真1の車両は?今まで見かけない車両です。うっかりしていたので、車号を控えるのも忘れていました。しかし、4年前から車両の増備はなく、この車両は一体何なのか?いろいろ調べた結果、どうやらクハ2504であることがわかりました。クハ2504は元々前面が張り上げ屋根の車両でしたが、前面に雨樋が追加されて張り上げではなくなっていました。なんだかハゲ頭にかつらを被せた感じですが、見た目が4年前から全く異なる車両になっていました。この車両の4年前の様子は第86話をご覧下さい。

 

2.クハ2503+モハ1007 (鮎川:1991年4月)

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 こちらのクハ2503は4年前と変わらずハゲ頭でした。クハ2504とは兄弟車両ですが、なぜクハ2504だけ雨樋が追加されたのか?ここにも改造車の美学があったのか?

 

3.クハ2501他 (大甕:1991年4月)

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 クハ2500形で1両だけ生い立ちが異なる元東横電鉄のガソリンカーだった、クハ2501が大甕の留置線にいました。幸い先頭車?だったので写真は撮れましたが、ここまで数珠つなぎされると困ってしまいます。おそらく、ここに留置されている車両は予備車です。普段は走らないので側線に突っ込まれた様です。

 

4.クモハ351+クモハ352 (常北太田:1991年4月)

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 クモハ350形は1984年に静岡鉄道からやって来た2両固定編成です。車体は1968年製の全鋼製ですが、元を正せば鶴見臨港鉄道の買収国電の鋼体化車両で、静岡鉄道のお手製車両です。4年前はまだ静岡鉄道色の銀色に青帯塗装でしたが、いつの間にか日立電鉄の標準塗装に塗り替えられて、朱に交われば日立電鉄の電車になっていました。

 

5.クモハ352+クモハ351 (常北太田:1991年4月)

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 この2連は、静岡鉄道時代のまま改造もされず、番号もそのままでしたが、2両共モハは経済的でなかったのか、クモハ351は主回路を切ってクハ扱いでした。

この車両の同型車が福井鉄道にいましたが、あちらはカルダン車でした。

 

6.クハ109+クモハ110 (常北太田:1991年4月)

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急に天気が悪くなってきました。雨も降りだし、急いで撮影です。 もう一編成の静岡鉄道から来たクハ109+クモハ110も常北太田の留置線にいました。この車両の同型車は熊本電鉄にいました。

 

第556話 1991年日立:本当の合理化は車種統一にあり!

1991年4月に、4年ぶりとなる日立電鉄を訪問しました。

この4年間、お隣の茨城交通湊線あたりまでは出向きましたが、なぜか勝田から先は敷居が高く、気が付けば4年も経っていました。しかし、4年目にしてなぜ日立電鉄まで足を伸ばしたのかと言うと、ここの車両もそろそろ置き換えの話しが決まったからです。

日立電鉄は早くから合理化を徹底してきましたが、なぜか車両は雑多な中古車ばかりで、しかも運用にあわせて、ラッシュ専用と閑散時専用の車両を保有するなど、非効率な車両が多く、肝心なところが抜けている様に思えました。しかし、合理化の矛先がようやく車種統一に向き、これで本来の合理化が達成に向けて前進することになりましたが、そうなると、せっかく確立した日立電鉄流改造車の美学もここまでです。車種統一されれば、つまらなくなることは目に見えました。

 

1.モハ15、モハ9 (大甕:1991年4月)

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 さて、実はこの日の午前中は茨城交通で撮影をしていました。4年ぶりの日立電鉄ですが、この日は休日だったのでラッシュもなく、どうせ単行しか走っていないだろうと、手を抜いてしまいました。

先ずは大甕駅の様子ですが、右のホームに止まっているモハ9が運用中の車両で、左のモハ15は昼寝中の車両です。この2両は共に両運のワンマンカーです。両運車は通常連結運転されることはありませんが、どの車両も片側が貫通化されていました。写真のモハ9とモハ15は共に常北太田寄りが非貫通でした。この両車の生い立ちは全く異なりますが、いずれも車体改造により、似たり寄ったりの機能本位な面構えになりました。しかしこれが日立電鉄流改造車の美学でした。

 

2.モハ15 (大甕:1991年4月)

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 今回は、この日撮影した食パンスタイルのモハ13形の写真をまとめてみました。モハ13形はモハ13~16の4両が在籍していました。4両共元相模鉄道の電気式気動車で、相模鉄道時代に電車化されたもので、1948年に全車が日立にやって来ました。当初はオリジナルの角ばった流線形でしたが、日立電鉄のセンスに合わなかったのか、1965年にこの様な食パンスタイルになってしまいました。

 

3.モハ13 (鮎川:1991年4月)

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 モハ13形は全長13.5mの小型車です。大型の路面電車並みの大きさですが、日中の単行運転にはちょうど良い大きさだったと思います。日立電鉄では早くも1971年にこの電車をワンマン化しました。一般鉄道におけるワンマン化の先駆けは、関東鉄道龍ヶ崎線で、日立電鉄はタッチ差で2番目でしたが、龍ヶ崎線は中間駅がたったの一つなので、ワンマンの本格的な運用は日立電鉄が初めてと言っても良いかも知れません。

 

4.モハ14他 (鮎川:1991年4月)

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 モハ13形は片側貫通となっていましたが、2連を想定したのか、奇数車と偶数車で貫通面の向きが異なり、モハ12とモハ14は常北太田寄りが貫通となっていました。

 

5.モハ13 (常北太田:1991年4月)

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 モハ13形を含めて、両運のワンマンカーは10両在籍していました。この10両はラッシュ時には運用されず、当時は日中の運行はほぼ40分ヘッドだったので、3列車運用です。よって、7両は一日中昼寝となり、車両が多すぎるのではないかと思われました。

 

6.モハ16 (久慈浜:1991年4月)

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 さて、旧型車の置き換えにより、貴重な元電気式気動車の成れの果てであるモハ13形もいよいよ見納めです。これが原型を留めていれば保存の話しも出たでしょうが、この食パンでは引き取り手はありません。

 

第555話 1988年蒲原:地元の足(その2)

全長わずか4.2kmの蒲原鉄道は、村松五泉間の「地元の足」として定着していました。しかしこの頃は、バス事業が優位に立ち、村松~新潟間の高速バスで成り立っている感じでした。蒲原鉄道は地元のローカル路線バス事業も行っていましたが、そちらは振るわない様でしたが・・・・。

 

1.モハ31 (村松:1988年4月)

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 在籍車両は全く変化なしでした。この日はモハ31が運用されていましたが、モハ41とモハ61は庫内に隠れており、撮影も出来ませんでした。

 

2.モハ71+クハ10 (村松:1988年4月)

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 ラッシュ専用のモハ71+クハ10も日中はいつもの場所で昼寝です。平日の朝しか走らないとは、もったいないと言うか、なかなか走行撮影ができない困った車両です。しかし、時々モハ71は単行で運用されていたようです。

 

3.モハ71の車内 (村松:1988年4月)

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 モハ71の車内は、蒲原鉄道標準の内装色でした。赤いモケットの腰掛が目にしみます。車内は広告も一切なしで、竣工時の形式写真の様です。

 

4.クハ10 (村松:1988年4月)

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 元機械式気動車だったクハ10は、全国にいた仲間がどんどん減ってしまいました。お隣の新潟交通のクハ37も既に休車状態で、1989年に廃車となりますが、このクハ10は蒲原鉄道が全線廃止となる1999年まで生き延びました。

 

5.クハ10の車内 (村松:1988年4月)

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 クハ10は前面が改造されてしまい、元気動車の面影が感じられませんでしたが、車内は低い背ズリの木製クロスシートなど、往年のキハ41000形の雰囲気がそのままで、赤いモケットが粋な車両でした。

 

6.モハ12(廃車) (村松:1988年4月)

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 モハ12は3年前に廃車されましたが、その後はずーっとここに居ます。保存するつもりなのか?しかし、着々と朽ちていました。

 

7.モハ12(廃車)の車内 (村松:1988年4月)

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 モハ12の車内です。窓越しに撮影したので、不鮮明な画像になってしまいました。

モハ12の車内は時間が止まっていました。この車両の現役時代に何度か乗りましたが、ラフな床板は、隙間から線路が見えていた記憶があります。

蒲原鉄道は、この先11年も現状維持が続きました。しかし、設備の老朽化が進み、1999年に全廃されました。全廃までの11年は何の変化もなく、坦々と走り続けましたが、その様子を時々のぞきに行きました。

第554話 1988年蒲原:地元の足

1988年4月、新潟の長期出張が終わりに近づき、久々の蒲原鉄道を訪問しました。加茂~村松間の廃止からちょうど3年が経っていましたが、部分廃止以降は車両の変化もなく、これと言った話題もなく、もう鉄道誌に取り上げられることもほとんどありませんでした。辛うじてJTBの時刻表には小さく掲載されており、取り敢えずは生きていることは確認できましたが、もし東京に居たら、これだけを見るために、わざわざ出向くことはなかったと思います。

 

1.モハ31 (村松~今泉:1988年4月)

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 この1年前には、村松~加茂間の廃線跡を探訪しましたが、今回は車両の様子を見ただけです。残存区間五泉村松間は、相変わらずほぼ30分間隔でピストン輸送されており、この日はモハ41が運用されていました。しかし、この区間はご覧の通り、国道が並行しており、まともに撮影できる場所がほとんどありません。

 

2.ED1 (村松:1988年4月)

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 村松車庫では、ED1が日向ぼっこしていました。

この機関車は全くの失業状態でしたが、綺麗に整備されていました。脇に写るバスは、蒲原鉄道のバスですが、奇抜な塗装で正直邪魔でしたが、改めて見ると結構レトロなバスです。

 

3.ED1 (村松:1988年4月)

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 ED1は、一見舶来機の様に見えますが、日車製のウェスチングハウス・モドキです。しかし、この類の機関車もずいぶん減ってしまいました。路線長わずか4.2kmで貨物輸送もないこの路線に、なぜこんな立派な機関車が在籍しているのか不思議です。恐らくは、生え抜き車両なので手放せなかったのでしょう。

 

4.ED1 (村松:1988年4月)

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 後ろのバスが邪魔でしたが、光線状態が良かったので、形式写真を撮りました。モドキですが、なかなか渋い機関車でした。

 

5.旧モハ1(デ2)廃車体 (村松:1988年4月)

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 作業場の詰所としてモハ1(デ2)の廃車体が使用されていましたが、その後、この車体が復元されることになり、驚きです。

 

6.貨車(廃車) (五泉:1988年4月)

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蒲原鉄道には使命を終えた数両の木造貨車が五泉村松の構内に保管されていました。これらの貨車は、1985年の部分廃止後に廃車となり、このような状態がその後も続きましたが、廃線直前になり整備され、保存のため有田鉄道へ譲渡されました。 

 

第553話 1989年関東(龍ヶ崎):ガラパゴス健在!!(その2)

この日は、竜ケ崎に来たついでに、少々沿線撮影も行いました。

 龍ヶ崎線は僅か4.5kmの路線なので、帰りは佐貫まで歩いて戻りました。

 

1.キハ522+キハ521、キハ531 (竜ケ崎:1989年4月)

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 龍ヶ崎線の車両は、たったの4両です。ラッシュ時には3連が運転されるので、これが最少の必要車両数ですが、日中は単行の1運用なので、残った3両は昼寝です。この日はキハ532が運用されていました。

 

2.元貨車の倉庫 (竜ケ崎:1989年4月)

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 この倉庫は元関西鉄道の有蓋貨車だったテワ1です。1900年関西鉄道四日市工場製の貴重なお宝です。国鉄を経て、鹿島参宮鉄道に移り、鉾田線で使用された後に龍ヶ崎線へやって来たもので明治の遺産でした。

 

3.SL4号機(保存) (竜ケ崎市内:1989年4月)

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竜ケ崎駅近くの公園には、龍ヶ崎線で最後まで使用されていたSL4号機が保存展示されていました。屋根付きでフェンスで囲まれていましたが、落書きだらけで困ったものです。 4号機は龍ヶ崎線の前身である竜ケ崎鉄道が新製した1925年川崎製造船製のC型タンク機です。1971年まで使用されていました。

 

4.キハ532 (入地~竜ケ崎:1989年4月)

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 龍ヶ崎線は、常磐線が竜ケ崎を通らなかったために、竜ケ崎と常磐線の佐貫を結ぶために開業した路線です。竜ケ崎市街地は住宅も多くて賑やかですが、佐貫へ向かう道中は農村地帯と化します。

 

5.キハ532 (入地~竜ケ崎:1989年4月)

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 農村地帯に入ると、民家はなくなります。約2kmほど坦々と田園地帯を走りますが、こんな風景を見ていると、竜ケ崎が都心への通勤圏内で、この路線が関東鉄道のドル箱路線とは思えませんでした。

 

6.キハ532 (入地:1989年4月)

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 ホーム脇の桜の古木には花がチラホラ。ここは、龍ヶ崎線唯一の中間駅である入地です。路線のほぼ中間地点です。

龍ヶ崎線は全駅ともホームが同じ側なので、車両の運転席が前後ともホーム側に設置されています。よって、佐貫寄りは左側運転席、竜ケ崎寄りは右側運転席です。ところで、車両のドアは両サイドにありますが、使用されるのはホームのある側のみなので、ホームの反対側のドアは全く使用されません。

この時の訪問では、在来車の動向は安泰そうでした。よって、龍ヶ崎線に元国鉄キハ35系が入る可能性はないものと確信できました。

第552話 1989年関東(龍ヶ崎):ガラパゴス健在!!

1989年は関東鉄道常総線に大量の元国鉄キハ35系が乱入し、貴重な旧型気動車が一挙に淘汰されてしまいました。この一大事を見届けるために、常総線ばかりに気を取られていましたが、そう言えば龍ヶ崎線はどうなのか?

 慌てて龍ヶ崎線に向かいました。 

 

1.キハ532 (入地:1989年4月)

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 独特の進化を遂げてきた関東鉄道ガラパゴス的存在だった龍ヶ崎線は、常総線に影響されることもなく、いつものメンバーで坦々と営業を続けていました。

 

2.キハ532 (入地~竜ケ崎:1989年4月)

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 確かに龍ヶ崎線は、車体更新された車両しかいなかったので、元国鉄キハ35系が入る必要性がなかったというのが実態でした。

 

3.キハ531 (竜ケ崎:1989年4月)

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 しかし、車体は新しくとも、足回りがヨボヨボの車両がおり、これらはいつまで走るのか?このキハ531は、1931年製の元江若鉄道キニ6を前身とする車両で、足回りはそのものズバリです。更新車体に菱枠型台車がミスマッチです。

 

4.キハ531 (竜ケ崎:1989年4月)

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 キハ531は1977年に大栄車輌で車体更新されました。本当は同じく江若鉄道から常総線に転じたキハ551形と似た容姿でしたが、なぜかこちらだけ車体更新されました。キハ551は、元国鉄キハ35系に淘汰されてしまいましたが、こちらはこれからまだまだ生き延びます。

 

5.キハ522+キハ521、キハ531 (竜ケ崎:1989年4月)

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 そして、龍ケ崎線にはキハ521+キハ522と言う片運2連のヨボヨボ車もいました。

 

6.キハ522+キハ521 (竜ケ崎:1989年4月)

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 キハ521+キハ522も江若鉄道から転じて来た車両ですが、こちらは元国鉄キハ42000系です。常総線のキハ610形に相当する車両ですが、キハ610形はオリジナルの車体を改造したのに対し、こちらは車体新製されたので、これも元国鉄キハ35系の乱入に影響を受けませんでした。