ローカル線の回顧録

1970年代後半から2000年頃までのローカル線の記録

第665話 1992年黒部峡谷:雨が降ったら黒部(その2)

黒部峡谷鉄道の車両は特殊限界の制約から生まれた大変興味深い面々でしたが、車両は徐々に進化していました。既にL型機は引退し、専用線時代の凸型機もほとんど走っている姿を見ることはできませんでした。

 

1.ED13、DD23 (宇奈月:1992年11月)

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右側の箱型の車両は協三工業製ディーゼル機関車のDD23です。このころ黒部峡谷鉄道には、このタイプのDLが2両在籍していました。DLは専ら営業期間前後の送電できない時期に工事列車として運行されるほか、非電化である黒薙線の資材列車に使用されていました。

 

2.ED29他 (宇奈月:1992年11月)

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  車両が小さいので、構内の風景はまるで模型を見ている様です。

この日も休日ですが工事列車は頻繁に運行されていました。工事列車も箱型機の割合が増えてきました。

 

3.DD23+貨物列車 (宇奈月:1992年11月)

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 そして、珍しくDD23が貨物列車の運用に入っていました。この車両はディーゼル機関車なので、恐らく非電化路線の黒薙支線の資材運搬から帰って来たところの様です。

 

4.ハフ16 (宇奈月:1992年11月)

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 工事列車の後部には、作業員輸送兼緩急車用の小型客車が1両連結されていました。この車両は元々無蓋貨車の改造ですが、木造のまま屋根と出入り口兼用の側窓を付けたものです。当時はまだこんなトロッコ車両が運用されていました。

 

5.ホハフ2506 (宇奈月:1992年11月)

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 この車両は、当時最新の旅客用客車です。クロスシートで密閉構造となり、従来のオープン客車に比べて居住性が大幅に改善されましたが、これに乗るには乗車料金がややお高い様でした。しかし、この鉄道に乗るならやはりオープン客車でしょう。

 

6.ホハ1076 (宇奈月:1992年11月)

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 これはお馴染みのオープン客車です。最近ではこの様に開放的な車両は乗客の安全上の配慮から減ってしまいました。この車両も更新となれば、恐らく密閉式か鳥かごの様な柵で囲まれた車両になってしまうと思われます。この日はこれに乗って初めて黒部峡谷に向かいます。

第664話 1992年黒部峡谷:雨が降ったら黒部

1992年は立山砂防の撮影を中心に北陸地方のローカル私鉄へよく出向きましたが、いつも晴れているとは限らず、雨の日はどこかで時間つぶしをしなければなりませんでした。たいていは富山地鉄を乗り回したり、富山界隈をブラブラしていましたが、それだけでは時間が余ってしまい、結局は雨が降ったら黒部です。

 

1.ED29+貨物列車 (宇奈月:1992年11月)

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 黒部峡谷鉄道の話題は、第536話、第537話で1990年の車両の様子をお伝えしましたが、その時は出費を抑えるため乗車もせず車庫見学だけで終わりました。よって、今回は乗車することにしましたが、その前に再び車庫訪問と、少々沿線の撮影を行いました。

 

2.ED11、ED9 (宇奈月:1992年11月)

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 2度目の車庫訪問は、勝手知ったる裏口からお邪魔しました。この日は秋の紅葉シーズン真っ盛りで、雨にもかかわらず車庫内は空っぽでしたが、今回はED11とED9が庫内に居ました。この頃はまだ、凸型の電気機関車が結構いましたが、旅客列車の牽引は箱型機が主力で、凸型機は工事列車の牽引がほとんどでした。

 

3.ED13 (宇奈月:1992年11月)

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 この日は運よく、前回訪問時に見ることが出来なかったED13とED17を見ることができました。ED13以降の機関車は、少し丸味を帯びた凸型機になりましたが、製造メーカーが東洋電機から日立製作所に変わりました。

 

4.ED13 (宇奈月:1992年11月)

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 このED13(注1)は地方鉄道になって最初に増備された車両です。黒部第四発電所建設の資材運搬用に同型の凸型機が4両(ED13,15,16,17)製造されましたが、この当時残っていたのはED13とED17の2両で、ED15,16はEH101,102に臓物を提供し、すでに存在していませんでした。

(注1)ED13の車歴

黒部峡谷ED13:1957年日立製作所

 

5.ED17 (宇奈月:1992年11月)

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 そして、ED13の増備であるED17(注2)は、若干スタイルが変わり、前面窓がHゴム支持の3枚窓になりました。なんとなく容姿が古めかしくなりましたが、この車両が凸型機の最終となりました。

(注1)ED17の車歴

黒部峡谷ED18:1957年日立製作所

ところで、このED17は、翌年に性能UP改造を受けてEDR17となりましたが、その際に箱型車体になりました。そして、この凸型車体をED13に譲り、ED13はEDS13となりました。

 

6.ED19+貨物列車 (宇奈月:1992年11月)

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 この機関車はED19ですが、ED18以降は機関車のスタイルが箱型で新製されました。1992年時点で同型の箱型機はEDM32まで増備されていましたが、その後、既存の機関車は性能アップのため、ED形からEDS形、EDM形更にEDR形へと改造され形式変更されます。

 

7.ED21 (宇奈月:1992年11月)

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 ちなみに、1992年時点在籍していた機関車の性能アップに伴う形式の変遷は以下の通りです。

・ED13→EDS13

・ED15,ED16→EH101,EH102(重連化)→EHR101,EHR102

・ED17~ED21→EDR17~EDR21

・ED22,ED23→EDM22,EDM23

・ED24~ED29→EDM24~EDM29→EDR24~EDR29

・ED30→EDM30

・EDM31,EDM32(新製時からEDM)

EDM化は、定格牽引力を向上させるため、歯車比を小さくする変更で、これに伴い自重が15.5tから16.8tになりました。EDR化は、牽引定数を変えずに全負荷時の最高速度を向上する変更です。これらの性能アップは増加する観光客輸送に対応するためのものと思われます。

第663話 1992年岳南:貨物が頼りだった頃(その3)

岳南鉄道は東急5000系が導入されるまで、12両の電車が在籍していましたが、そのうち8両が元小田急電車で、この8両は5000系と入れ替わり、再就職のあてもなく全車が廃車となり、そのうち5両がダルマとなって残存しました。

 

1.ED402、モハ5002+クハ5102 (比奈:1992年1月)

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 そして、元小田急電車以外の4両は鋼体化名義の自社発注車で、3両は日車標準車体の電車でした。なぜかモハ1105だけがステンレス製日車標準車体風の更新車でしたが、これはSUS鋼体の試作を兼ねた汽車会社製でした。この4両は共に再就職が決まり、モハ1101,1103,1106は近江鉄道、モハ1105は大井川鉄道に引き取られました。

 

2.旧クハ2601廃車体 (岳南富士岡:1992年1月)

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 岳南富士岡には、もう1台ダルマがいました。このダルマは車庫の敷地内なので、岳南鉄道が倉庫代わりに使っている様でした。色は電気機関車と同じ塗料なのか焦げ茶色です。

 

3.旧クハ2601廃車体 (岳南富士岡:1992年1月)

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 このダルマは、旧クハ2601です。これも元小田急デハ1608で、1972年に岳南にやって来ました。

 

4.モハ5003+クハ5103 (岳南富士岡~須津:1992年1月)

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 岳南富士岡の車庫をのぞいたあとは、もう見るものがなくなってしまったので、とりあえず歩いて終点の岳南江尾まで行くことにしました。岳南富士岡から先は工場地帯から脱し、一転して農村地帯となります。

  岳南江尾は岳南富士岡から3km弱の道程です。東海道新幹線の高架脇の何もないところでしたが、富士山は拝めました。

 

5.モハ5004 (岳南江尾:1992年1月)

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思えば、毎週新幹線でここを通過していた頃がありましたが、この場所に来るとなると非常に不便な場所です。東京から「のぞみ」なら止まらないものの、わずか40分程でこの地点を通過しますが、東海道線を乗り継いでくると3時間近くかかります。しかし、新富士という駅ができたので、辛うじて東京まで2時間圏内です。

 

6.モハ5004+クハ5104 (岳南江尾:1992年1月)

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 改めて5000形ですが、この電車は各地で活躍していましたが、この岳南鉄道の塗装が一番まともだったように思えます。岳南鉄道はその後乗客が減り、とうとう元京王井の頭線3000系だった7000形を両運車で導入し、5000形を置き換えますが、最近富士急から購入した元京王5000系の9000形もこの塗装が踏襲されて、これもまたしっくりと岳南塗装が馴染んでいい感じだと思います。

 

7.モハ5004+クハ5104、モハ5002+クハ5102 (岳南江尾:1992年1月)

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 岳南江尾はなにもないところです。貨物列車も須津までです。なぜここまで開通したのか?

あれから29年経った現在の岳南鉄道は、もう貨物輸送がなくなってしまい、これからは頼りにならなかった旅客輸送で生計を立てていかねばならなくなりましたが、車両は元京王電車に代わり、まだまだ頑張ってもらいたい鉄道です。

第662話 1992年岳南:貨物が頼りだった頃(その2)

この頃の岳南鉄道は、まだ貨物輸送主体の鉄道だったように思います。もっとも貨物輸送のために開業した路線なので当然です。しかし、国鉄の貨物合理化の煽りや荷主様の都合で、バブル期とは言え、かつて程の活気はありませんでした。

 

1.ED402 (比奈:1992年2月)

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 この日は、冬晴れの清々しい天気で、素晴らしい富士山が拝めました。しかし、貨物列車の時刻を確認して来なかったので、いつ貨物列車が来るのかさっぱり分からず、適当に待っていたら、茶色の機関車がワムを連れてやって来ました。

 

2.ED402 (比奈:1992年2月)

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 牽引機はED402でした。欲を言えば旧型機に来て欲しかったのですが、この頃の貨物輸送は主力であるED40形2両で十分で、予備車になっていた古典機はほとんど登場しませんでした。

 

3.ED402+貨物列車 (比奈:1992年2月)

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 このED40形(注1)は、もともと松本電鉄梓川電源開発の資材輸送用に導入した機関車でした。その電源開発工事が終わり、この機関車が余剰となったため、1972年に岳南にやって来ました。

(注1)ED40形の車歴

・岳南ED402←松本ED402:1965年日本車輌

・岳南ED403←松本ED403:1966年日本車輌

 

4.ED402+貨物列車 (比奈:1992年2月)

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 岳南鉄道の貨物輸送は、沿線の製紙工場で生産される紙製品やパルプ、薬品類でした。しかし、紙製品の輸送量が減少気味で、徐々に電気機関車の数も減っていました。

 

5.モハ5001+クハ5101 (岳南富士岡:1992年2月)

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 貨物列車の撮影後、岳南富士岡の車庫へ古い電気機関車を見に行きました。

まずは、検査入場中の5000系トップナンバーが出迎えてくれました。

 

6.ED291 (岳南富士岡:1992年2月)

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 そして、陽の向きが残念なED291(注2)です。ED291は元豊川鉄道の買収電機です。国鉄時代にED291を襲名し飯田線で使用されていましたが、廃車後の1959年に岳南にやって来ました。両端デッキ付きの40t機ですが、非力なため専ら入換機だった様です。頑丈な側梁に張り付く菱型の配管が特徴的でした。

(注2)ED29形291の車歴

・岳南ED291←国鉄ED291←豊川デキ52:1927年日本車輌

 

7.ED501 (岳南富士岡:1992年2月)

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 さらに庫内には、凸型40t機のED501がいました。

ED501(注3)は現上田電鉄の前身である上田温泉電軌の北東線開業時に新製された電気機関車ですが、パワー過剰で一時期小田急に貸し出され、廃車後は名鉄へ渡り歩きましたが、その後岳南鉄道が昇圧時に名鉄から借用したまま居座ってしまった車両です。岳南に正式に移籍したのは1970年です。

(注3)ED50形501の車歴

 ・岳南ED501←名鉄デキ501←上田デロ301:1928年川崎造船

ED291、ED501は、古風な機関車ではありますが、あまり目立たず、非常に地味な存在でした。もう少し前であれば、ED281、ED321やED103などが在籍していましたが、時すでに遅しでした。なお、ED103は元々大井川鉄道電気機関車でしたが、1970年に岳南に転じ、その後貨物輸送減少の為、1986年に再び大井川に出戻りました。

第661話 1992年岳南:貨物が頼りだった頃

今回は1992年に初めて訪問した岳南鉄道です。

私にとって東海地方のローカル私鉄は、大井川鉄道以外ほとんど縁がありませんでした。理由は古い車両が走っていなかったからです。この当時は、静岡鉄道も遠州鉄道も立派な自社発注車で運行されていましたし、岳南鉄道は自社発注車こそありませんでしたが、1981年に元東急5000系を導入して雑多な旧型車を一掃してしまったからです。しかし、岳南鉄道には貨物輸送があり、古風な電気機関車が在籍していたので、これを見るため出向きました。

 

1.クハ5102+モハ5002 (吉原:1992年1月)

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 岳南鉄道の5000系(注1)は青ガエルではなく赤ガエルでした。

Mc+Tcの2連4編成が在籍しており、これが旅客車の全てです。ここの5000系の特徴は、Tc車が全て中間車からの改造で、Mc車と同じ前妻を新製したことです。最近では中間車の先頭車化は当たり前のように行われていますが、いずれも手抜きでブサイク極まりない改造ですが、この5000系は全く手抜きがありませんでした。ちなみにこの写真の前妻は後から付けたものですが、従来の前妻と全く見分けがつかない程の出来栄えでした。

(注1)5000系の車歴

・岳南モハ5001←東急デハ5027:1956年東急車輛

・岳南モハ5002←東急デハ5028:1956年東急車輛

・岳南モハ5003←東急デハ5040:1958年東急車輛

・岳南モハ5004←東急デハ5049:1959年東急車輛

・岳南クハ5101←東急サハ5351:1956年東急車輛

・岳南クハ5102←東急サハ5363:1956年東急車輛

・岳南クハ5103←東急デハ5114:1958年東急車輛

・岳南クハ5104←東急サハ5364:1956年東急車輛

 

2.旧サハ1955廃車体 (比奈:1992年1月)

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電気機関車を見に来たわけですが、真っ先に目に入ったのは旧型車の廃車体でした。 

この当時、5000系の導入で淘汰された旧型車が、沿線でダルマとなって倉庫に活用されていました。特に比奈の近くには4台もダルマがいました。

写真は、手前から旧サハ1955、旧クハ2106、モハ1602の廃車体 で、すべて元小田急電車でした。

この顔面白塗りのダルマは旧サハ1955で、元小田急サハ1955でした。元小田急サハ1955は、元々クハ1955として1956年に川崎車輌で製造されサハ化後の1976年に岳南にやってきました。岳南にもサハがいたと言うことは、3連の運用があったと言うことですが、1992年当時では2連でも過剰なほど輸送需要は減ってしまいました。

 

3.旧クハ2106廃車体 (比奈:1992年1月)

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 中間に置かれたこの青色のダルマは旧クハ2106で、元小田急クハ1659でした。この青色は、ダルマになってから塗装されたものです。

小田急クハ1659は、1953年東急車輛製で、1969年に岳南にやって来ました。

 

4.旧モハ1602廃車体 (比奈:1992年1月)

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 一番後ろに置かれたこのダルマは旧モハ1602で、元小田急デハ1606でした。元小田急デハ1606は、1942年川崎車輌製で、1972年に岳南にやってきましたが、当初はモハ1601を名乗り、後にモハ1602に改番されました。

 

5.旧モハ1107廃車体 (比奈:1992年1月)

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 そして、1台だけ縦列から外れて横に置かれていたこのダルマは旧モハ1107で、元小田急クハ1351でした。

小田急クハ1351は1927年藤永田造船所製で、岳南へ移籍の際に電動車化されて1969年にやって来ました。一時期電装解除されてクハ2602となりましたが、1979年にはモハ1107として復活するものの、実態は制御車扱いでした。

できればこのダルマ達が現役の頃に訪れたかったです。

 

6.モハ5002+クハ5102 (岳南富士岡~比奈:1992年1月)

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 さて、本線撮影ですが、貨物列車を撮影したくて比奈の周辺で待つことにしました。

比奈には多数のワムが留置されており、背景の工場と言い、いかにも貨物輸送が盛んな様ですが、まずは赤ガエルがやって来ました。

 

7.モハ5002+クハ5102 (岳南富士岡~比奈:1992年1月)

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 この当時は日本各地のローカル私鉄に元東急5000系が多数再就職していた頃です。よってこの電車は珍しくも何ともありませんが、岳南の旅客車はこれしかないので、一応撮影しておきました。

第660話 1992年名鉄(岐阜):悩ましい市内電車

1992年のGWは近鉄北勢線養老線を訪問し、帰りは大垣に出ました。そして、岐阜から豊橋までは名鉄を利用するため岐阜で下車しましたが、まだ時間もあるのでたまには岐阜市内線の電車でも見ようと車庫のある市ノ坪へ向かいました。

  これまで岐阜と言えば名鉄の揖斐・谷汲線ばかり出向いていましたが、市内線や美濃町線は古い車両がなかったので全く興味が湧かず、正直どんなところを走っているのかも把握していませんでした。

 

名鉄美濃町線時刻表(平成11年4月1日改正)関方面の抜粋

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まずは徹明町から競輪場まで乗車です。徹明町は美濃方面への市内線の起点でしたが、ホームもない単線の電停でした。ここから発車する電車は普通の路面電車タイプで、日中は市街地の外れである日野橋折返しの運用で、日野橋から先は新岐阜発の新関行に乗り換えとなりました。

ここで謎なのは、上記の時刻表をご覧頂くと、徹明町発着の電車と新岐阜発着の電車が途中の競輪場前~日野橋間を続行運転するダイヤになっていたことです。そもそも、徹明町と新岐阜は500mしか離れておらず、行き先を分けなくても、徹明町の交差点に新岐阜方面への渡り線を追加すれば済む話です。しかも、新岐阜への直通列車は田神~新岐阜間のわずか1駅だけDC1500V区間各務原線に乗り入れるため、わざわざ複電圧車を使用していました。

 

1.モ601 (市ノ坪~競輪場前:1992年5月)

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まあ、名鉄にとって美濃町線は、徹明町よりも新岐阜に直接乗り入れることが重要なステータスだったのかも知れませんが、私の様な「よそ者」にとっては、非常にわかりにくい運行形態で、悩ましい市内電車でした。

 

2.モ603 (競輪場前:1992年5月)

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 モ600形は美濃町線用の複電圧車でした。1970年の新岐阜乗り入れ用に6両が新製されましたが、市内線運用も考慮された結果、なんとも馬面になりました。車体幅約2.3m、車両長15m弱のこの車両は何とクロスシート車です。美濃町線におけるモ510形の後継車でしたが、床下は旧型車の流用機器でギュウギュウ詰め、一見冷房車風に見えますが、屋根上の機器箱は抵抗器です。限界艤装の濃縮電車でした。

 

3.モ604、モ603  (競輪場前:1992年5月)

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 市内線電車の競輪場で下車した私は、車庫がある市ノ坪まで、田神線を1電停戻りました。この田神線は市内線の車庫が新岐阜から市ノ坪へ移転した1966年に出来た入出庫用の非営業路線でしたが、1970年新岐阜~美濃間の直通運転開始により営業線になりました。

写真は、田神線の競輪場前電停です。ここもホームはなく、道路に白線で電停位置が記されているだけですが、列車の交換所になっていました。ちょうど列車の交換風景を撮影できましたが、ご老人が乗車する様子は、安全面、バリアフリー面で考えさせられるものがありました。

 

4.モ880形  (競輪場前:1992年5月)

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 そして、この電車は1980年に導入されたモ880形低床連接車です。この電車は5編成製造されましたが、この当時はまだ非冷房で、高床車のモ600形6両と共通運用されていました。ところでこの電車は現在福井鉄道に居ます。

 

5.モ551、モ558、モ572  (市ノ坪:1992年5月)

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 ここが、市ノ坪にある車庫です。ここには岐阜市内線用と美濃町線用の車両が所属していました。写真には、モ550形とモ570形しか写っていませんが、1992年当時の岐阜市内線車両は、これ以外にもオリジナルのモ590形、元札幌市電A830形だったモ870形が在籍していました。

 

6.モ558 (市ノ坪:1992年5月)

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モ550形は元北陸鉄道金沢市内線モハ2000形です。 金沢市内線が廃止されて、1967年に10両が岐阜へやってきましたが、この他にも元金沢市内線からやってきたモ530形、モ560形は、1988年に岐阜市内線の徹明町~長良北町間が廃止された時点で余剰となり、モ550形を除き廃車されました。

 

7.モ575 (市ノ坪:1992年5月)

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 モ570形は一見都電6000形の様な車両ですが、まさに都電6000形をコピーした車両で、美濃町線用に5両新製されたオリジナル車両です。

 

この日は、このあと豊橋鉄道を訪問するため、岐阜市内線は以上でサラッと流しましたが、帰りは市ノ坪から一旦新岐阜へ戻りました。しかし、乗った電車の車内精算で一悶着が・・・

私は徹明町から競輪場まで乗った市内線料金と同額を払ったのですが、料金不足を指摘されました。実は、市ノ坪~田神間の500mは市内線で、田神~新岐阜の1駅間は鉄道線なので別料金が加算されるとのこと。よって倍料金。やられました!!

この時、競輪場前~日野橋間の続行運転の謎が解けました。例えば市内線区間の日野橋から岐阜方面に乗車すると、徹明町までは市内線均一料金で乗車できますが、新岐阜までは鉄道線料金が加算となり、倍料金となります。よって、ひねくれた解釈をすれば、倍料金を払いたくない人のために続行運転の徹明町行が存在していたのでは・・・。しかし、名鉄にしてみれば、岐阜市内の道路渋滞に影響されず、名古屋方面へ乗り換えが便利な新岐阜直通は倍料金でも当然と言ったところでしょうか?

しかしながら、名鉄岐阜市内線は「よそ者」には何かと悩ましい市内電車でした。

第659話 1992年名鉄(揖斐・谷汲):いつまでも大正時代!!

1992年の正月も谷汲線詣に出向きましたが、実は一畑電鉄の帰り道でした。

正確には、年末から琴電~一畑~谷汲と渡り歩き、吊掛電車三昧でした。新年早々、金毘羅山にも出雲大社にも谷汲山華厳寺にも寄らず、大変ばちあたりではありますが、これも限られた日程だったため、ひたすら古い電車を追い掛けていました。

 

1.モ512+モ513 (長瀬~谷汲:1992年1月)

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 ところで、年末から放浪をしていたので、いい加減疲れも溜まり、谷汲線はほんのお茶濁し程度の訪問となりました。まずは、毎度の長瀬~谷汲間です。

 

2.モ512+モ513 (長瀬~谷汲:1992年1月)

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 この日は雲の多い日でしたが、モ510形の登場に合わせた様に陽が差しました。

先に第445話でお伝えしましたが、この3ヵ月前にも、揖斐線の朝の3連を撮るため岐阜を訪れていました。その時はモ510形は走っていませんでした。よって、そのリベンジでもあったわけですが、モ510形との再会は2年ぶりとなります。

 

3.モ512+モ513 (長瀬~谷汲:1992年1月)

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 モ510形は相変わらず元気そうでしたが、この谷汲線はいつまで経っても大正時代のままです。どういうわけだか、谷汲線には新車が入って来ません。よほど電力事情がよくなかった様ですが、改善の兆しもまったくありませんでした。そういう意味では、将来性のない路線と言ったところでしょうか。

 

4.ク2323+モ702 (谷汲~長瀬:1992年1月)

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 そして、これも大正時代の産物である愛電と名岐のコンビです。この当時モ510形はすでに隠居生活に入っており、波動対応の予備車的存在でしたが、こちらの赤電はまだまだバリバリの現役主力車でした。しかし見るからにかなりくたびれていました。

 

5.モ702+ク2323 (長瀬~谷汲:1992年1月)

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 この日は、本腰を入れた撮影ではなかったので、愛電・名岐コンビはこのくらいにして、とりあえずモ510形を追い掛けて揖斐線に移動しました。

 

6.モ512+モ513 (政田~下方:1992年1月)

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 午後になると曇ってしまいました。この辺は関ケ原に近いこともあり、冬場は日本海から流れる雪雲の通り道です。よって天気は不安定で目まぐるしく変わります。

撮影は折り返して来るモ510形の時間を考えて、政田~下方間の根尾川橋梁で行いました。

 

7.モ512+モ513 (政田~下方:1992年1月)

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戻って来た510形は、急行の黒野行でした。 この日はもう谷汲へは行かず、黒野で入庫の様でした。早く帰れと諭されているようなので、撤収です。

この時点、モ510形は3両(512,513,514)が健在でした。このような波動輸送やイベント対応で、この3両はその後もまだまだ生き延びます。