ローカル線の回顧録

1970年代後半から2000年頃までのローカル線の記録

第3話:1987年新潟交通 晩秋の越後平野(その3)

 連休なのでブログが順調に進みます。

今回も1987年の新潟交通です。アップした写真はもう30年前のものですが、撮影したあたりは今どうなっているのか気になります。上越新幹線燕三条を新潟方面に出発して数分すると、進行方向左手に見覚えのある風景が展開します。ちょうどそのあたりで上越新幹線新潟交通が交差していました。新幹線から注意して見ていると今でも廃線跡が確認できます。新潟交通は鉄道を廃止したあと、自社の路線バスで代替輸送を行いましたが鉄道亡き後は過疎化が進み、バス路線もかなり整理され、今では公共交通機関を利用して現地を効率よくまわることは困難と思います。しかし、天気の良い日に廃線跡をブラブラ歩くのも良いかも知れません。

1.広告電車(燕~灰方:1987年11月)

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日中は殆どの列車が単行でした。写真は最高の撮影日和ですが、電車の車体広告がイマイチ。この田園地帯でどれほどの広告効果があったのか?しかしこれも収益の一環!!。地方鉄道には車体広告のスポンサーがあるだけでもマシな方でした。

2.返しの2連(燕~灰方:1987年11月)

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新潟交通は 新潟寄りの白山前~白根間の輸送需要はそこそこあり、当時は日中も30分間隔で2連も走っていました。しかし、白根から燕寄りは列車本数は半減し、日中は単行ばかりです。よって、燕寄りで日中2連を撮影することは極めて困難でしたが、この写真はラッシュ時に新潟方面に行った2連の折返しです。実質クハの回送ですが、何とかクハを順光で撮影できました。

3.想定外のモハ2連(燕~灰方:1987年11月)

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日中は単行ばかりなので、そろそろ撮影を引き上げようかと思っていた時、想定外の2連がやってきました。しかもモハの2連!!。実はこの2連は、営業車が故障車を牽引していたもので、牽引された故障車はパンタを下げて乗客は乗っていません。故障車は、この日の朝、月潟付近でパンタを破損した車両でした。ラッシュ時に営業障害となり、故障車は救援運転で燕まで回送されましたが、車庫のある東関屋まで再び移送される最中の一コマです。

4.白根付近を行くモハ16(白根~味方:1987年11月)

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いきなり田園地帯から飛んで白根付近を行くモハ16です。新潟交通は路線の殆どが写真の様に中ノ口川の土手沿いです。この写真は唯一路線を俯瞰できる陸橋から撮影したものです。写真の後方が新潟市街で、延々と家並みが続きますが川沿いの集落を外れると広大な田園地帯が広がっていました。

1987年頃、新潟交通電車線は貨物輸送こそなくなっていましたが、列車本数も多く、それなりに活気があった時代だったと思います。その後、白山前~東関屋間の併用軌道区間が廃止となり、続いて1993年に最も新潟らしい区間であった燕~月潟間が廃止され、1999年にはとうとう残った東関屋~月潟間も廃止されて電車線はなくなってしまいました。あれから30年経ちましたが、私にとって燕付近の越後平野を走る新潟交通の電車は、今でも忘れ難い存在です。