ローカル線の回顧録

1970年代後半から2000年頃までのローカル線の記録

第21話 1987年栗原 鉱山閉山の頃

しばらく気動車ネタが続きましたので、今回は電車ネタです。

私にとってあまり縁のなかった地域が東北です。元々気動車を追いかけて地方を彷徨していましたが、東北地方は非電化私鉄が少なく、なかなか足が向きませんでした。しかし、大学時代にバイト先で知り合った友人に誘われて、地方私鉄巡りを始めた頃から趣味の枠が徐々に古い電車にも拡大してゆきました。ただしその頃は、“なくなりそうな電車”が結構あり、どうしてもそっちが優先となってしまい、結果的に栗原電鉄は後回しになっていました。ところが、栗原電鉄と共に歩んで来た細倉鉱山が1987年3月に閉山され、このままでは鉄道も危ないとの情報を得て、急遽、初の栗原訪問となりました。今回はその時の状況をお伝えします。

 

1.失業の車両たち (若柳:1987年11月)

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栗原電鉄は細倉鉱山の鉱山鉄道として生まれた鉄道です。当初は非電化の軽便鉄道でしたが、細倉鉱山の増産によって、まずは1950年に電化。そして、わずか5年後の1955年には改軌と、段階的ではありますが、都度の設備投資を考えると決して合理的とは思えない発展を遂げました。これも鉱山のお陰でしょうか。

しかしその鉱山がなくなったから、さあ大変です。元々この地域には鉱山以外の産業は思い浮かばないくらい何もなく、まず被害を受けたのが、運ぶ物がなくなった機関車たちです。当時栗原は、4両の電気機関車と2両の入換用ディーゼル機関車保有していましたが、全車失業です。

 

2.ED351とED201他 (若柳:1987年11月)

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栗原と言えば、ED200形(注1)です。この機関車は軽便時代に電化した際に自社発注された18t機で、改軌後も台車を改軌して20t機となり居座りました。しかし、所詮軽便車両であり非力で総括運転も出来なかったため主力にはなれず、同形車が3両もいましたが晩年は寝ている方が多かったようです。

(注1)ED200形の車歴:栗原ED201~203(改軌)←栗原ED181~183:1950年中日本重工業製

 

3.元路面電車の機関車だったED351 (若柳:1987年11月)

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ED351(注2)は、元東武鉄道日光軌道線から1969年にやって来ました。35t機でED200形よりはパワーがあったので実質の主力車でした。東武日光軌道線ではこの車両がタンク車を牽引して道路上をノソノソ走っていたそうですが、現物を見てみたかったです。

(注2)ED351の車歴:栗原ED351←東武ED611:1955年東洋工機製

 

4.入換機DB101 (若柳:1987年11月)

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DB10形(注3)は細倉鉱山での貨車入換と石越駅国鉄との貨物受け渡しを行う入換用10t機関車で、2両(ED101,102)在籍しました。形態的には全国の側線で見られた標準的な移動機です。貨物輸送廃止後はDB101のみ保線用として残りました。

(注3)DB10形の車歴:栗原DB101,102:1965年協三工業製 

 

5.栗原電鉄の拠点である若柳駅 (若柳:1987年11月)

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 この時点栗原電鉄は完全な旅客鉄道になっていました。沿線は人口も少なく、旅客だけでやって行けるのか心配でしたが、幸い親会社がバックアップについてくれ、公的な欠損補助もあったので、この時は何とか廃止を免れました。