ローカル線の回顧録

1970年代後半から2000年頃までのローカル線の記録

第33話 1984年蒲原 加茂~村松間の晩年(その4)

晩秋の蒲原はこの時が見納めでした。もう1年チャンスがあれば、まともなカメラを買って再度訪れていたと思いますが、“後悔先に立たず”です。

 

1.古豪モハ12 (土倉~高松:1984年11月)

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 ススキが生い茂る土倉の築堤をモハ12がやって来ました。周りに何もないのでいつの時代か錯覚を起こしそうなワンカットです。恐らくこの光景は、大正時代の開業時からほとんど変わってないはずです。

モハ12(注1)は蒲原鉄道村松~加茂間延伸時に新製したデ11形3両(デ11~13)のうちのデ12です。このデ11形は3両とも村松~加茂間が廃止となる1985年3月末日まで在籍しましたが、デ12だったモハ12はワンマン化されたので最も使用されました。なお。デ13は開業時に導入されたデ2の台車に交換されてデ2の名義を引継ぎ、モハ11形から外れてモハ51となりました。また、デ11はモハ11となりましたが、モハ11とモハ51は共にワンマン化されず、最後まで原型を留めていました。

(注1)モハ12の車歴:蒲原モハ12←蒲原デ12:1930年日本車輌

 

2.土倉駅停車中のモハ31 (土倉:1984年11月)

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 ここは土倉駅です。モハ31が停車したのか通過したのか、微妙に近づいてきました。

土倉は夏の訪問時に仮眠をした駅です。ちょうど車両に隠れていますが、ホームには小さな祠のような待合所があり、利用客も皆無なので仮眠には最適でした。この駅の一帯には小さい集落がありましたが、果たして利用客は?。

モハ31(注2)は開業時導入したデ1の更新名義で1952年に車体新製された車両です。このモハ31は前面がモハ41とそっくりなのでよく間違えてしまいますが、モハ31は2扉車でモハ41は3扉車です。

(注2)モハ31の車歴:蒲原モハ31(車体新製)←デ1:1923年蒲田車輌製

 

3.高松駅を出発するモハ41 (高松:1984年11月)

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午後になり、高松駅にやって来た村松行きのモハ41には結構乗客が乗っていました。高松駅の周辺は一面ススキ野でした。これも晩秋の蒲原ならではの風物詩でした。この高松には金割鉱泉という1軒宿がありました。私も廃線後の探訪時に食事と入浴をしましたが、春だったので“てんこ盛り”の地元の山菜と鯉料理が美味しく、温めの鉱泉に癒された思い出があります。しかし、金割鉱泉はその後廃業となりました。

モハ41(注3)は開業時導入したデ2の更新名義で1954年に車体新製された車両です。しかし車体が大きく、デ2の台車では強度不足であることがわかり、台車をデ13と振り替えたので、その後はデ13の名義を引き継いでいます。また、当初はモハ31と同型車体でしたが、1963年に西武所沢で車体延長及び3扉化されました。よって、車体長もモハ31は15.15mに対し、モハ41は16.7mでモハ41の方が1.5mも長いのですが、なぜか申請重量は逆に4.6tも軽かったそうです。

(注3)モハ41の車歴:蒲原モハ41(車体新製)←デ13:1930年日本車輌

 

4.モハ12 (高松~大蒲原:1984年11月)

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 大蒲原から村松方向は徐々に山間部に入って行きます。大蒲原から高松間は里山の雰囲気があり、蒲原らしい光景が展開していました。レトロなモハ12が最も似合う区間です。夏にもこの付近でモハ12を撮影しました。

 

5.モハ41 (土倉~高松:1984年11月)

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再び土倉~高松間ですが、この区間は軌道脇に雑草が生い茂り、ワイルドというか、撮影にはちょっと難ありでした。しかしこれも蒲原ならではの光景だったのかも知れません。