ローカル線の回顧録

1970年代後半から2000年頃までのローカル線の記録

第53話 1985年北陸(石川) まだ田舎電車だった頃(その3)

北陸鉄道の金名線の加賀一の宮~白山下間が休止となったのは1984年12月でした。それからまだ9ヵ月しか経っていませんでしたが、運行再開の兆しは全く感じられず、もともと廃止を思案していたのが、手取川橋梁の橋台路盤風化という想定外の災難によって具体化してしまったように思われました。それでもこの区間が廃止となったのは1987年4月です。自然災害は手っ取り早い廃止の理由にはなりますが、すぐに廃止しなかったのは、やはり地元に対する便宜的なはからいだったのでしょうか?

 

1.暫定終点?の加賀一の宮で折り返すモハ3744 (加賀一の宮:1985年9月)

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 加賀一の宮は、神社風の結構立派な駅舎でしたが、非常に閑散としていました。

残った鶴来~加賀一の宮間も廃止は時間の問題かと思っていましたが、その後20年も生き残りました。

 

2.モハ3731+クハ1723 (鶴来~日御子:1985年9月)

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 石川線には自社発注車と名鉄からの移籍車が同居していましたが、制御方式は直並列自動総括制御に統一されていたので、自社発注モハと元名鉄クハの連結運転もよく見られました。自社発注車は張り上げ屋根で中途半端にHゴム窓枠を採用した北鉄タイプと言ってもよい独特の風貌でした。とてもブサイクな顔つきをしていますが、なぜか憎めません。しかし、この程度の電車なら自社で作ってしまう程の技量を北陸鉄道はもっていました。

 

3.金名線残存区間を行くモハ3732 (加賀一の宮~中鶴来:1985年9月)

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 金名線は晩年日中の列車運行をやめてバスに委ねていましたが、 鶴来~加賀一の宮間は日中も1時間ヘッドで運行していたので、この区間加賀一の宮~白山下間の運行休止後もほとんど態勢に影響はありませんでした。しかし代行バスは鶴来を起点としていたので、鶴来~加賀一の宮間は、おまけの様な区間でした。それでもこの区間加賀一の宮にある白山比咩神社の初詣輸送だけは半端ではありませんでした。この区間が休止を免れたのは初詣輸送のためだったのか?。

 

4.モハ3731(鶴来:1985年9月)

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 モハ3731(注1)は、張り上げ屋根、ブサイク顔である北鉄スタイルの原型となった車両です。元はなんとサハ1000形という不随車でしたが、いずれは電車化を想定した設計だったので、新造から10年目の1966年にようやく電車となりました。
(注1)モハ3730形の車歴
 北鉄モハ3730形(モハ3731,3732)←北鉄サハ1000形(サハ1001,1002):1956年日本車輌
 

5.更新出来たてホヤホヤのモハ3751(鶴来:1985年9月)

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 モハ3751(注2)は、ノーシル・ノーヘッダーで他の北鉄タイプ車に比べて若干近代的に見えましたが、この車両はもとモハ5000形という温泉客輸送用のクロスシート車でした。1951年に2両自社発注され河南線に投入されましたが、後に河南線にはロマンスカー「くたに号」、「しらさぎ号」が投入されると、1964年に石川総線にやって来ました。その後はロングシートに格下げされ、制御方式を変更して、モハ3750形となり、1983年にモハ3752、1985年にモハ3751が車体更新されました。

写真のモハ3751はまさに更新直後の出来たてホヤホヤですが、相変わらず憎めない昭和30年代のブサイク顔です。

 (注2)モハ3750形の車歴

・北鉄モハ3750形(モハ3751,3752)←北鉄モハ5000形(モハ5001,5002):1951年広瀬車輌製

 

6.元名鉄のツーショット モハ3744、モハ3742 (鶴来:1985年9月)

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 北陸鉄道はさんざん身を削って生き延びてきましたが、最後に残った石川線浅野川線で縮小は収まった感じでした。

しかし、車両の老朽化は避けられず、ここも大手私鉄のお古を活用して新装開店する道を選びます。石川線には1990年に東急7000系が投入されます。