ローカル線の回顧録

1970年代後半から2000年頃までのローカル線の記録

第75話 1991年高松琴平 お楽しみの雑多車両(その4)

この日は志度線も30形の運用比率が高かったので、程々に引き上げて仏生山を覗きに行きました。琴平線は金毘羅山の初詣輸送のため、翌日の元旦は殆どの車両が動員されますが、明日は一畑の初詣輸送を撮影するため、この日のうちに出雲市に移動しなければならず、仏生山は毎度ですが申し訳程度の訪問です。

 

1.増結用の両運車1063 (仏生山:1991年12月)

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普段はあまり走らない増結車両もスタンバイ完了です。 初詣輸送は一畑電鉄と相通じるものを感じます。

 

2.1017+950 (仏生山:1991年12月)

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 1017+950は普段ラッシュ時の限定運用のみに使用されますが、明日は終日走るのでしょうか。こちらも非常に気になりますが、一畑の年始輸送に軍配を上げざるを得ません。ところで後部の950ですが普段は4連の中間に入るため、撮影するチャンスがなかなかありません。

 

3.810+820 (仏生山:1991年12月)

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 810+820も普段はラッシュ時しか走りません。

 

4.820+810 (仏生山:1991年12月)

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珍しく820の顔が撮れました。コンビを組んでいる810とは同じ生い立ちの元豊川鉄道の買収国電です。しかし、この2両は 琴電に転じた後の車体更新時期がズレたため、820は前照灯が頭上1灯ですが、810はおでこに2灯となり顔立ちが変わってしまい、820はモハ化されました。

 

5.62+760,他 (瓦町:1991年12月)

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仏生山の後は瓦町の留置線です。こちらは長尾線志度線のラッシュ時しか走らない雑多な車両の寝床です。車両はいっぱいいますが、ギュウギュウ詰めでまともな写真は少ししか撮れません。 

62(注1)は元京急の木造電車だったデ37を前身とする車両です。戦後の大手私鉄からの供出車として、当時の東急電鉄から琴電にやって来た8両のうちの1両です。

これら戦後の供出車は、いずれも相当酷使された車両で、状態も決して良くなく、琴電移籍後に簡易な鋼体化(ニセスチール化)改造を行いましたが、デ37は著しく状態が悪く、琴電では台枠を流用して車体を新製し、1953年に62として生まれ変わりました。改造当初は前面2枚窓非貫通でしたが、1981年に貫通化されました。

(注1)62の車歴:琴電62(モハ)←東急デハ5105←京急デ37:1913年天野工場製

 

6.750,760,他 (瓦町:1991年12月)

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 62が出庫し顔を出したのは750と760で共に玉野市営から転じてきた兄弟車両です。本当は3兄弟でしたが、770は1978年に事故廃車となりました。この2両は750が1999年、760が2006年まで活躍し、長尾線に冷房車が投入され廃車となりました。

この日は日中も雑多車両が運用に入っていましたが、そろそろ出雲市に移動しなければならず、後ろ髪を引かれる思いで高松をあとにしました。