ローカル線の回顧録

1970年代後半から2000年頃までのローカル線の記録

第76話 1987年越後交通(長岡) 謎の貨物鉄道

旅客鉄道ばかりがローカル線ではありません。たとえば貨物鉄道も地方鉄道として認可されている路線があります。貨物鉄道は概ね最初から貨物鉄道として開業するケースが一般的です。しかしなかには貨物鉄道から旅客鉄道に転じるケースもありますが、その逆もあります。

今回は、その逆のケースだった越後交通長岡線です。この鉄道は新潟県内では新潟交通と双璧をなす大手です。今は鉄道路線はありませんが、長岡を拠点に現在もバス会社として有名で、元総理大臣だったあの田中角栄氏が社長を務めた時期があります。その越後交通鉄道路線長岡市内の信濃川を挟んで2路線ありました。このうち、長岡駅から離れた信濃川西岸の西長岡を拠点とした長岡線は1975年に廃止となった後も、一部区間を貨物鉄道として存続していました。

 

1.ED311 (西長岡:1987年5月)

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 しかし、1975年の旅客鉄道廃止後は全くと言っていいほど情報がなく、どうなっているのか謎の多い鉄道でした。この鉄道の実態を調べるきっかけとなったのは、就職直後の新人研修の時でした。当時長岡にあった工場で実習することになり、約2カ月ほど長岡で暮らすことになりました。その際に越後交通の存在を思い出し、何の情報もないまま本屋で長岡市の地図を購入すると、地図には確かに越後交通の路線が記載されおり、半信半疑で西長岡に出向きました。

 

2.ED5101と変な貨車 (西長岡:1987年5月)

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西長岡は意外にも会社の寮から歩いて行けるところにありました。最初の訪問は日曜日だったので、西長岡の車庫には誰もおらず、長岡線も日曜日は休みであることがわかりました。とりあえず西長岡構内の留置車両を撮影し、まだ現役であることが確認できました。

 

3.社線用の貨車 (西長岡:1987年5月)

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  西長岡は長岡線の拠点だったのでかなり広い構内でした。路線はここから信越線の来迎寺と関原方面へV字に伸びていました。来迎寺方面は旅客営業をやめた1975年3月よりも以前に既に貨物専用線となっており、信越線経由で来迎寺からこの鉄道の主力顧客であるセメント列車が乗り入れてきます。一方関原方面はかつて日本海沿岸の漁業の街である寺泊までつながる比較的長い路線でしたが、1975年3月の旅客営業廃止時に関原から先が廃止となりました。

 

4.結構広い西長岡構内 (西長岡:1987年5月)

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1987年時点、来迎寺線の運用は、平日はセメント輸送がほぼ定期運行されており、午前は積車が来迎寺から才津間に、午後は空車が才津から来迎寺にそれぞれ設定されていました。このためセメント列車のお迎えと、その見送りのため西長岡から午前と午後にそれぞれ1往復の機関車出庫があり、貨物の量に応じて重連になることもありました。関原線は全くの不定期で、貨物がある時は午後の来迎寺線の運行の後に関原へ向けて1往復ダイヤが設定されていました。

 

5.単機回送でセメント列車を迎えに行くED5101 (有栗~西長岡:1987年5月)

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長岡線は日曜日が休日なので、2回目は土曜日にチャレンジです。

朝から西長岡に向かったところ電機のパンタが上がっていました。これは走行写真が撮れると思い、撮影場所を探して線路脇をダッシュです。1km程走ると田園地帯となり、田植えの終わった水田は鏡の様に青空を映していました。心が洗われる光景です。

待つこと暫し、汽笛と共にゆっくりやって来たのはED5101の単機回送でした。これを真横から撮影したのが上の写真です。

 

6.ED5101 (有栗~西長岡:1987年5月)

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電機はそのままゆっくり通過して行きました。電機はいずれ戻ってきます。よって戻りを撮影するため再び来迎寺方面へ移動です。