ローカル線の回顧録

1970年代後半から2000年頃までのローカル線の記録

第87話 1987年日立 ローカル私鉄的改造車の美学(その2)

日立電鉄のラッシュ時のハイライトは4連です。

しかしこの4連は朝が常北太田→鮎川、夕方が鮎川→常北太田の1日1往復しか走らず、しかも走行する時間帯が朝は早く、夕方は遅いので陽の短い季節の撮影は無理でした。

この日は前日から大甕のビジネスホテルに泊まって、朝の4連を狙いましたが、残念なことに天気がイマイチでした。

 

1.朝の4連 (川中子~常陸岡田:1987年3月)

f:id:kk-kiyo:20190112130414j:plain

 1日1往復のための4連とは全く不合理極まりありませんが、それでも毎日のラッシュをさばくために4連を仕立てておいた方が合理的だったのでしょうか?

さて、この4連は左から2両目だけ形態が異なり、せっかくの編成美を台無しにしています。しかし、この車両も他の3両とまったく同じ生い立ちの元小田急モハ1形ですが、ここへ至る経過で1両だけ見てくれが変わってしまいました。この車両は中間電動車として4連には欠かせない存在でした。

 

2.クモハ110+クモハ109(川中子~常陸岡田:1987年3月)

f:id:kk-kiyo:20190112112158j:plain

 クモハ110+クモハ109は静岡鉄道からやって来た2両ユニットです。この編成もラッシュ時の限定運用でした。車体はスマートで一見カルダン車に見えますが、この車両は静岡鉄道のお手製で、電気品は手持ち品が流用されたので吊掛車です。

 

3.モハ9貫通面 (小沢~常北太田:1987年3月)

f:id:kk-kiyo:20190112130353j:plain

 日立電鉄は、ラッシュが終わるといきなりローカル線と化します。皮肉にもラッシュが終わる頃から晴れてきました。

ラッシュが終わると、ラッシュ時に活躍した車両はどこに行ってしまったのか、日中の列車は単行で行ったり来たりとなります。

 

4.モハ12非貫通面 (小沢~常北太田:1987年3月)

f:id:kk-kiyo:20190112130523j:plain

 日中単行で使用される車両はすべてワンマンカーでした。日立電鉄のワンマン化は1971年と早く、国内ローカル私鉄ワンマン化の先駆けでした。しかし、乗客が比較的多かった大甕~鮎川間は車掌さんが乗務していました。日立電鉄は大甕を境に、常北太田側は農村地帯で、鮎川側は住宅街もしくは工場地帯なので、昼間の輸送需要は全く異なります。列車は全線通し運転でしたが、昼間は大甕を越えて乗車する人はほとんどなく、大半の列車は大甕駅でJRと接続していた都合、長時間停車する場合もありました。

1987年当時ワンマンカーは10両ありました。その内訳は、モハ9形(2両)、モハ11形(2両)、モハ13形(4両)、モハ1006、モハ1301。
モハ9形、モハ11形は自社発注車、モハ13形は元相模鉄道気動車グループで、モハ1301は元宇部鉄道の買収国電ですが、相棒に先立たれて連結相手がいなくなりワンマン化され、モハ1006はモハ1000形一族でなぜか1両だけワンマン化されました。

 

5.モハ12貫通面 (大沼~河原子:1987年3月)

f:id:kk-kiyo:20190112131843j:plain

 写真のモハ12(注1)は、 戦後の混乱期に大甕~鮎川間の延伸開業用に自社発注された増備車両で、同形車が2両在籍しました。

ところで、戦後の混乱期に地方私鉄が新車を導入することは非常に厳しく、一説によるとこの2両は、日立製作所にて営団地下鉄向けに製造していた車両を親会社のパワーで横流ししてもらったそうです。当時営団地下鉄には1200形という車両が存在していましたが、この2両は営団1200形をベースとした新形式車となる予定だったそうです。

そのころ日立電鉄がよほど重要な通勤路線であったのか、日立製作所日立電鉄に対する思い入れが強かったものと思われます。

 (注1)モハ11形の車歴:モハ11,12:1947年日立製作所

 

6.モハ14非貫通面(川中子~常陸大橋:1987年3月)

f:id:kk-kiyo:20190112130608j:plain

写真のモハ14(注2)は4両いたモハ13形の1両です。この電車は元々JR相模線の前身である初代相模鉄道発注の流線形気動車キハ1000形でした。初代相模鉄道は、神中鉄道と合併して2代目相模鉄道となりましたが、初代相模鉄道の路線が国鉄に買収されて現在のJR相模線に至っています。

ところで、その初代相模鉄道のキハ1000形はなんと電気式気動車でした。今でこそハイブリッド・ディーゼルカーがもてはやされる時代ですが、戦前に電気式気動車を量産導入していたとは、相模鉄道はたいしたものです。その後キハ1000形は現在の相模鉄道に転じて電車化されましたが、路線のDC1500V昇圧時である1948年に全車4両が日立電鉄に譲渡されました。日立電鉄ではそのままの流線形で使用しましたが、1965年の車体更新時に全車食パン切妻化されてしまい、つまらない電車になってしまいました。しかし貴重な経歴の車両が形態こそ変わってしまったものの、全車残っていたことが奇跡的です。

 

(注2)モハ13形の車歴:日立モハ13~16←相模モハ1001~1004←相模キハ1001~1004:1935年35汽車会社製

 

7.モハ1301貫通面 (久慈浜:1987年3月)

f:id:kk-kiyo:20190113112514j:plain

 モハ1301(注3)は、元宇部鉄道の買収国電の成れの果てです。日立電鉄には1957年に相棒のクハ5301と共にやって来ました。最終的に宇部の買収国電は4両在籍しましたが、最後に残ったモハ1301は1985年に突然両運化されてワンマンカーとなりました。

写真は運転台を増設した方の妻面で、こちらは貫通化されていました。また、元は2ドア車でしたが、1963年に日立電鉄にて3ドア化されました。

(注3)モハ1301の車歴:日立モハ1301←国鉄モハ1301←宇部モハ22:1929年東洋車輌製