ローカル線の回顧録

1970年代後半から2000年頃までのローカル線の記録

第92話 1978年~1979年広島 ヒロ電ボロ電の頃(その3)

広電は路面電車のイメージが強く、宮島線の高床車はその存在をあまり知られていません。しかし宮島線にも他社からの移籍車が存在しました。興味深いのが阪急電車の中古車が活躍していたことです。阪急と言えば能勢電以外に中古車の譲渡はほとんどありません。どうして広電に阪急の車両がいたのか不思議です。

 

1.元阪急の異端車だった1080形1082+1081 (井口~荒手車庫前:1978年9月)

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 1080形(注1)は元阪急210形です。阪急時代はMc+T+Mcの3連で活躍していましたが、広電に譲渡される際に中間車を抜いて2連化されました。また、運転室寄りのドア配置を変更しています。阪急210形は元々電動貨車の機器を流用して1956年に1編成だけ製造され、京都線に投入されましたが15m車で非貫通だったことから異端車となり、晩年は阪急電車の老人ホームである嵐山線で細々と活躍し、1976年に廃車されて広電にやって来ました。嵐山線にはもう少し前まで200形と言う阪急では珍しい流線形がいましたが、私個人的には210形よりも200形に広電に来て欲しかったです。

(注1)1080形の車歴

・広電1081+1082←阪急212,211:1956年ナニワ工機

 

2.元阪急500形だった1070形1072+1071 (井口~荒手車庫前:1978年9月)

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広電には元阪急500形(注2)が8両もいました。阪急500形は宝塚専用の小型車で昇圧に際して廃車となり広電にやってきました。

ところで、私は広島に住む前の幼少の頃、兵庫県西宮市に住んでいました。その頃阪急電車に良く乗りましたが、おそらく500形にも乗っていたはずで、広島に引っ越してから再び500形改め1070形のお世話になったわけです。この1070形は力行時にHBを開放するたびに桶をたたく様な独特の音を立てて走りましたが、その音が忘れられません。

 

3.1070形1072+1071 (荒手車庫:1979年2月)

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1070形は広電初の2両貫通車ですが入線にあたり、ドア配置を広電独特の2連接車同様に変更し ました。写真のように進行方向後部となる車両のドアが中央1か所となっています。後部ドアには車掌スペースが併設されており、これは先に導入された2連接車に合わせて客扱いを統一したためと思われますが、連接車に比べて車体が大きいので3ドアでは乗降時間がかかり少々難ありで、後に増備された1080形はドア位置をずらした程度で1ドア化は実施されませんでした。

(注2)1070形の車歴

・広電1071+1072←京阪神500,501:1938年川崎車輌

・広電1073+1074←京阪神502,503:1938年川崎車輌

・広電1075+1076←京阪神504,505:1938年川崎車輌

・広電1077+1078←京阪神508,509:1938年川崎車輌

 

3.モロ神戸市電の570形582 (江波車庫:1979年2月)

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さて、市内線の方ですが、 昭和40年代は各地の路面電車がことごとく廃止されました。そのころ広電も市内線は赤字でしたが何とか廃止の危機は乗り越えました。その過程で各地の廃止となった路面電車を大量導入し車両の近代化を図った結果、広電は路面電車博物館?となり、広電=路面電車のイメージが定着しました。

1979年当時の広電市内線は自社発注の小型車に代わり、大阪市電、神戸市電が幅を利かしていました。その頃の車両はほとんどオリジナルのスタイルを維持していました。

写真の570形(注3)は、元神戸市電500形で、広電に17両譲渡されました。この車両は元々大正時代に製造された神戸市電J,K,L形式のうち戦災で生き残った車両達です。神戸ではこの戦災生存車を500形570番代に集約し、1958年~1962年にかけて大阪車輌工業で車体更新を行い写真のスタイルとなりました。広電では管理上一部改番を行いましたが、車両の改造はほとんどなく使用開始されました。

(注3)570形の車歴

・広電571~575←神戸市571~575(←K車):1959年大阪車輌工業

・広電576~580←神戸市576~580(←K車):1960年大阪車輌工業

・広電581,582,583←広電591,592,590←神戸市591,592,590(←J車):1959年大阪車輌工業

・広電584←神戸市584(←L車):1960年大阪車輌工業

・広電585~587←神戸市585~587(←L車):1962年大阪車輌工業

広電には廃止となった元神戸市電から、1971年に29両もの車両が一挙に譲渡されたため、そのあおりで初代600形、初代700形、初代800形が一挙に淘汰されてしまいました。

 

4.モロ大阪市電の900形908 (江波車庫:1979年2月)

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 そして広電には大阪市電も大量に譲渡されました。大阪市電は神戸市電より廃止が早く、1965年~1969年にかけて30両も移籍しています。これにより広電の小型車両はほぼ一掃されてしまいました。

写真の900形(注4)は元大阪市2600形で1969年に14両が広電に譲渡されました。この車両は大阪市電の高性能車3000形に準じた全金製車体ですが、台車と電気品は木造車1081形から流用された鋼体化名義の車両です。大阪時代にワンマン化もされていましたが、移籍時の広電はまだワンマン化されておらず、とりあえず4両だけ白島線で広電初のワンマンカーとして運用を開始し、その後全車ワンマンカーに復帰しました。

(注4)900形の車歴

・広電901~914←大阪市2628,2631,2633,2634,2626,2627,2629,2630,2632,2635~2639:1957年大阪車輌工業

※902は1977年火災焼失

 

5.3000形3002編成製造中!! (江波車庫:1979年10月)

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 1979年広電は西鉄福岡市内線から譲受した2連接車を運用するため改修に着手しました。先行導入された1300形と同じ改造かと思っていましたが、なんと今回は3連接車でした。なぜかその3連接車の改造中の写真を撮っていました。この写真は3002編成です。しかし、2両連接車3編成を3両連接車2編成に仕立て上げる改造は大改造で、とても地方私鉄の自社工場で実施する改造ではありませんが、広電はそれを平然とやってしまいました。そういえば、2000形や2500形は広電お手製だったことを思えば、その技術力は納得できます。そして広電の場合、どこかの改造電車と違いブサイクではありません。この年3両連接車は2編成竣工しました。

 

6.京都からの助っ人(荒手車庫:1979年2月)

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 広電の中古車大量導入の最後は京都市電でした。1977年にまず2両が譲渡されてきましたが、京都市電が全廃された1978年には追加で11両がやって来ました。これらの車両はすべて元京都市電1900形で当然ワンマン化もされていましたが、広電で竣工したのは1979年~1980年でした。竣工までの間に細々と改修され、前面の行き先表示が大型化されてかなり表情が変わってしまいました。写真は改修前の1928ですが、改番されて1912となり1980年に竣工しました。

 

当時の私は路面電車は全く興味がありませんでした。しかし各地から集まって来る車両のバラエティーと移籍後の改造が面白く、徐々に興味を持つようになりました。しかし写真はほとんど撮っておらず、せっかく広島に居たのにもったいないことをしました。