ローカル線の回顧録

1970年代後半から2000年頃までのローカル線の記録

第97話 1981年~1982年広島 ヒロ電ボロ電の頃(その8)

宮島線の古い車両がなくなってくると趣味の対象がなくなり、ますますつまらない状況になってしまい、その頃から市内線の路面電車にも目を向けるようになりました。

ところで、当時私は高校3年生でしたが父親の転勤で高校を卒業と同時に東京に引っ越すこととなり、長年接してきた広電ともお別れです。

 

1.広電オリジナルの被爆電車650形652 (小網町~天満町:1981年7月)

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 天満町の石畳軌道を古風な652(注1)がやってきました。まだ前面の行き先表示が小型の原型です。この車両は戦前に広電が発注した車両で原爆に被災しましたが、奇跡的に5両全車が復旧しました。

なお、650形のうち655だけは戦災復旧に時間が掛かりました。被害の程度が大きかったためで復旧に際して張り上げ屋根となり、この車両だけ違う外観となりました。しかしせっかく復旧したのに今度はトラックとの衝突事故で1967年に廃車となりました。

(注1)650形の車歴:広電651~655:1942年木南車輌製

その後650形は貴重な被爆の生き証人として徹底的な修繕を経て、ワンマン化、冷房化が図られました。

 

2.元京都市電だった1900形1908 (福島町~己斐:1981年7月)

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 元京都市電1900形は廃止直前の1977年と廃止後の1978年に広電に譲渡され、1979年~1981年にかけて竣工しました。外観は塗装も含めてほぼ原型に近く、中ドア脇の車掌台に小窓を設けた他、前面の行き先表示の大型化が図られました。すべて京都時代にワンマン化もされており、広電でも1900形(注2)を名乗りましたが管理上全車改番されています。

(注2)1900形の車歴

・広電1901~1911←京都1916~1918,1923,1919,1920,1924,1921,1925~1927←京都916~918,923,919,920,924,921,925~927:1957年ナニワ工機

・広電1912~1914←京都1928~1930←京都928~930:1957年東洋工機製

・広電1915←京都1931←京都931:1957年日本車輌

京都市電1900形は元々900形として製造されました。この900形の内1957年製の16両がドア配置を前,後2ドアから前,中2ドアに変更してワンマン化され1900形となりました。1922のみ京都時代に事故廃車されましたが、他の15両全車が広電に移籍しました。広電移籍後は1980年から冷房化が着手されますが、路面電車の冷房化は時期尚早だったのか、模索された結果3種類の冷房装置を搭載することになりました。

 

3.元神戸市電だった570形572 (福島町~己斐:1981年7月)

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神戸市電500形は戦前の雑多な車両を統合したグループで、独特な風貌をしており趣味的には大変面白い車両です。しかしこの頃の広電は車体広告が度を過ぎており、とても撮影する気になれませんでした。とにかく目立てば良いと言う発想なのか?強烈でした。ところでこの車両も後に冷房化されました。 なお、この車両の車歴は第92話をご参照願います。

 

4.元大阪市電1801形だった750形771 (西観音町~福島町:1981年7月)

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 自動車が全くいない平和大通りを行く750形771(注3)です。この写真は早朝なので道路がガラガラなわけです。ここは私が通っていた高校の近くで、朝学校に行く前に撮影した写真です。この電車は元大阪市電1801形で大変古風ではありますが、車体広告がなんとも奇抜で、これが路面電車に興味が持てなかった 理由です。

 

5.元大阪市電1601形だった750形762 (西観音町~福島町:1981年7月)

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この写真も早朝の撮影です。ちなみにこの車両は元大阪市電1601形です。路面電車を落ち着いて撮影するには早起きに限ります。

なお、1982年時点で750形の車歴は下記の通り非常に複雑で、広電移籍後の車番振替は理由がよく分かりません。正しいのか正直自信ありませんが列記します。

(注3)広電750形の車歴

・広電751←大阪市1613:1929年梅鉢鉄工所製(1982年廃車)

・広電752←広電753←大阪市1616:1929年梅鉢鉄工所製(1981年廃車)

・広電753←広電752←大阪市1619:1929年梅鉢鉄工所製

・広電754←大阪市1623:1929年梅鉢鉄工所製(1982年廃車)

・広電755←広電766←大阪市1825:1950年富士車輌製(1982年廃車)

・広電756~759←大阪市1634,1635,1637,1643:1929年梅鉢鉄工所製(756,757は1979年廃車、758は1979年に貨51,759は1980年に貨52に改造)

・広電758,759←大阪市1637,1643:1929年梅鉢鉄工所製

・広電760←広電765←大阪市1832:1950年富士車輌製

・広電761~763←大阪市1651~1653←大阪市1581~1583←大阪市散水車26~28:1929年製造所不明(1581~1583は1940年木南車輌にて改造)

・広電764←広電770←大阪市1829:1950年富士車輌製

・広電765←広電760←大阪市1645:1929年梅鉢鉄工所製

・広電766←広電755←大阪市1632:1929年梅鉢鉄工所製

・広電767~769←大阪市1826~1828:1950年富士車輌製

・広電770←広電764←大阪市1654←大阪市1584←大阪市散水車29:1929年製造所不明(1584は1940年木南車輌にて改造)

・広電771,772←大阪市1830,1831:1950年富士車輌製

※上記を広電移籍時の車号でもう少しわかりやすく表現すると、下記の様に3パターンに集約できます。

①751~759,765は、1929年梅鉢鉄工所製の元大阪市1601形。

②761~764は、1929年製の散水車を前身とする1940年木南車輌改造の元大阪市1651形。

③760,766~772は、1950年富士車輌製の元大阪市1801形。

広電で改造して貨51,52となった758,759は花電車用です。

 

6.広電オリジナルの550形554 (千田町車庫:1982年3月)

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 1982年3月は広島を離れる直前に千田車庫を訪問しました。

そこには多数の路面電車が在籍しており、改めて広電の規模と私自身の路面電車に対する知識の無さを実感しました。当時広電には市内線用として、戦後製のオリジナル車である500形、550形、350形(注4)が存在しました。他社からの移籍車に圧倒されて地味な存在でしたが、これらが戦後の広電スタイルを確立した車両達です。

(注4)500形、550形、350形の車歴

・広電500形(501~505):1954年ナニワ工機

・広電550形(551,553~555):1955年ナニワ工機

・広電350形(351~353)←広電850形(851~853):1958年ナニワ工機

※550形は純粋な市内線用の電車ですが、1958年に不定期で初めて宮島線直通用に使用されました。また、551は唯一間接自動制御のカルダン車として試作された車両でしたが、後に直接制御の吊り掛車に改造されました。なお、552は1975年に千田町車庫の火災に遭い廃車されました。

※350形は当初850形と称し、宮島線直通車として導入された間接制御車です。後に2000形、2500形が増備されると、1971年に間接制御のまま市内線用に転じ、350形に改番されました。

 

7.検査入場中の被爆電車650形653 (千田車庫:1982年3月)

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 653も入場に際し、前面の行き先表示の大型化が図られていました。古い車両も着々と変化していましたが、広電のすばらしいところは、どの車両もオリジナルを重んじた改造を徹底していたことです。