ローカル線の回顧録

1970年代後半から2000年頃までのローカル線の記録

第99話 1980年,1983年東武(熊谷) 幻のアーバン〇〇ライン!!

皆さん“アーバンパークライン”という路線をご存知でしょうか。

アメリカのニューヨークあたりにありそうな路線名ですが、直訳すると"都会の公園線"とでも言うのでしょうか?最近は路線名や駅名が激変し、いったいどこなのかさっぱりわからないことが多々あります。あえて地名を出したくない理由があるのかも知れませんが、イメージチェンジも実用を考えると、地名くらい入っていた方が親切かも。

例えば、こんなのはどうでしょうか?

“アーバンパーク実は野田線”、“千葉・埼玉周辺パークライン”、“リアル野田-春日部-岩槻ライン”・・・・悪ふざけは、この辺でやめましょう!!

 

さて本題ですが、“東武熊谷線”をご存知でしょうか。「何それ?」と言われる方も多くなってきましたが、知らなくても熊谷あたりにあったと想像できます。

かつて、東武鉄道には熊谷線という非電化路線がありました。

熊谷線は国鉄高崎線の熊谷駅から妻沼までの路線長10.1kmで、所属車両が気動車3両しかない、とても東武鉄道の路線とは思えない零細路線でした。もともと終点の妻沼から利根川を越えて対岸の東武鉄道小泉線とつながる計画でしたが、戦争で計画が中断されたまま頓挫してしまい、その後は大手東武鉄道の“隠れ蓑”に守られて温々と生き延びていました。

熊谷と言えば新幹線の駅もある埼玉県の主要都市ですが、妻沼は悲しいほど閑散としたところで、熊谷線は小泉線とつながらない限り意味を成さない路線であることが良くわかりました。しかし、小泉線との接続はその区間の延伸免許失効で叶わぬ夢となり、さすがの東武鉄道も耐え切れず、1983年に熊谷線を廃止しました。

私は、熊谷線が非電化で気動車が走っていたので、一度は見ておこうと1980年に訪問し、その後廃止直前に2回目の訪問を行いました。いずれも乗車のみで走行写真は撮っていませんが、今回は2回の訪問で写した若干の車両写真をご紹介します。

 

1.熊谷線専属キハ2000形 (妻沼:1980年3月)

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 キハ2000形(注1)は、東急車輛が地方私鉄向けに設計した標準形気動車でした。湘南顔の好ましい車両ですが、あまりはやらず、ほぼ同型車が加越能鉄道加越線に2両製造(後に鹿島鉄道に移籍)されただけに終わりました。

(注1)キハ2000形の車歴:東武キハ2001~2003:1954年東急車輛

 

2.車庫で憩う熊谷線オールキャスト (妻沼:1980年3月)

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 熊谷線にはキハ2000形がわずか3両のみ在籍しました。普段は単行運転ですが、ラッシュ時は2連となりました。鉄道路線としては最少の陣容です。

 

3.お別れ列車 (妻沼:1983年5月)

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 1回目の訪問で、もう十分でしたが、熊谷線は廃止されることになり、1983年の廃止直前に見納めのため2回目の訪問を行いました。

さすがに廃止直前なので野次馬が多く、日中も2連で運行されていました。

 

4.お別れ列車 (妻沼:1983年5月)

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 熊谷線は東武鉄道のなかでも他路線につながらない離島路線でしたが、車体色が東武の一員であることを物語っていました。しかし、白装束はいかがなものか?この頃国鉄気動車など1色塗りが流行していましたが、この東武カラーは人気がありませんでした。廃止までにもう一度以前のツートンカラーに戻して欲しかったです。

 

5.キハ2000形車内 (妻沼:1983年5月)

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 キハ2000形の車内はクロスシートでした。この程度の路線にこれだけの車両を投入できたのも東武鉄道の一員だったお陰だと思います。

 

6.お別れ列車 (妻沼:1983年5月)

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 最後になりましたが、今回もインスタントカメラ時代のプリントからスキャンした画像なので、お見苦しくて申し訳ございません。

さて、現在の妻沼は路線バスもなくなってしまうほど過疎化が進んでいるそうです。もし、熊谷線が小泉線とつながっていたら、もしかして妻沼の街共々大発展を遂げて今頃熊谷線は“アーバン何とかライン”になっていたかもしれません。