ローカル線の回顧録

1970年代後半から2000年頃までのローカル線の記録

第104話 1985年,1987年新潟交通 越後の寸景

このブログの第1~3話で、1987年の晩秋に撮影した新潟交通をご紹介しましたが、その頃の新潟交通の写真が他にもあります。今回は当時撮影していた新潟交通の様子をご紹介します。

 

1.クハ48+モハ?形 (1985年4月:新飯田~六分)

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 この写真は1985年3月31日に部分廃止された蒲原鉄道のサヨナラ運転の翌日、新潟交通に立ち寄った際のものです。前日は雪の降るあいにくの天気でしたが、この日は快晴で、前日が悔やまれました。

 

2.モハ11 (1985年4月:曲~月潟)

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せっかくの快晴ですが、この時はまだ新潟交通の実態もわからず、とりあえず月潟近辺でこの2枚だけ撮影し、この日は東京に戻りました。

ところで2年後の1987年、私は就職して新潟との関りが出来、本腰を入れて新潟交通を撮り歩くことになりました。その頃新潟で撮り歩いた新潟交通の寸景をご紹介します。

 

3.モハ12 (燕:1987年5月)

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 新潟交通燕駅はJR弥彦線燕駅に隣接しており、改札口は個別にありましたが実際は一緒の駅でホームは跨線橋でつながっていました。かつて貨物輸送を行っていた時は、この燕で国鉄との貨物受け渡しを行っていました。1987年当時は貨物輸送は廃止された後だったので、授受線は使われていませんでしたが、燕構内にはラッシュ時に使用する増結用のクハが多数留置されていました。

 

4.モハ18 (灰方~小中川:1987年5月)

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この写真は灰方駅から新潟方向に5分程歩いた場所です。 この頃、越後平野は既に田植えも終わり、梅雨までの間は最も天気が安定した時期です。この写真の背後は延々と田園地帯が続きますが、後方に見える土手の様なものは北陸自動車道の築堤です。写真の右方向へ4km程行ったところに三条燕インターがあります。

 

5.モハ25 (六分:1987年5月)

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 六分(ろくぶ)駅は貨物の積込み側線を有する結構大きな駅です。晩年は燕~六分間の区間列車も運行されていましたが、1991年に燕~月潟間が廃止され、六分も一緒になくなりました。

 

6.六分駅舎 (六分:1987年5月)

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 六分駅は木造の好ましい有人駅でした。駅前には何もありませんでしたが、農協の倉庫や米の積込みホームが残っており、かつては米の出荷で賑わったことが偲ばれました。

 

7.モハ14 (新飯田~六分:1987年5月)

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 六分駅周辺は中ノ口川の土手沿いに線路が敷かれれており、撮影可能な場所がほとんどありませんが、この写真の様にほんの少しの区間だけ土手から離れた場所がありました。