1990年2月に大阪出張中の休日を利用して紀州鉄道を訪問しました。
前回訪問の1985年12月から4年ぶりとなります。前回訪問の様子は第46,47話をご覧ください。
この頃、世の中はバブル期絶頂でした。地方都市もバブル景気の恩恵で少しは景気が良かったはずですが、紀州鉄道では輸送需要の少なかった西御坊~日高川間を1989年に廃止し、当時は日本一路線が短い、全長2.7kmの地方鉄道になっていました。
1.キハ603(御坊:1990年2月)
さて、4年ぶりではありますが、車両の出入りはなく、4年前と同じ顔ぶれでしたが、キハ600形の顔に若干変化ありでした。以前は前面窓がHゴム支持でしたが真四角で銀縁の押さえ金具に変更され、鋭い表情となりました。そして前照灯がシールドビーム化されて、左右腰部にも増設されて3灯化されました。
2.キハ603(学問~御坊:1990年2月)
この日は、キハ603が運用されていました。
僅か2.7kmの区間をピストン運転していましたが、この18m車でも有り余る程の大きさです。しかもDMH17はそうとう燃費が悪かったようです。
3.キハ603(学問~御坊:1990年2月)
この頃は、第三セクター向けの小型気動車が量産化されて、エンジンも燃費の良い高出力の直噴型が主流になっていましたが、大手不動産会社の紀州鉄道もそこまで手を出すほど、この路線の設備投資は行いませんでした。
4.キハ605(紀伊御坊:1991年12月)
この写真は1991年12月に訪問した時に撮影したものですが、1984年に岡山臨港鉄道からやって来たキハ 1003は、キハ605(注1)に改番されて、車体もかなり改造されていました。
性能的にはトルコン化されましたが、外観的には、前面窓が4枚から3枚化され、中央の窓が大型化されました。そしてドアが片引き戸から折り戸となり、塗装も紀州鉄道の標準?となりました。しかし、この車両はワンマン化までされたものの、まともに使用されたことがなかったようで、いつも紀伊御坊の構内に鎮座していました。紀州鉄道では、キハ600形2両で十分に運用が賄えたようで、キハ605は便宜的な予備車両だったようです。
(注1)キハ605の車歴
紀州キハ605(キハ1003)←岡山臨港キハ1003←常磐炭鉱キハ21:1952年宇都宮車輌製
5.キハ604(紀伊御坊:1991年12月)
この日はキハ604が運用されていました。
キハ604もキハ603と全く同じ改造を受けていました。
6.キハ604(学問~御坊:1991年12月)
この後も、キハ600形は大事に使われて、2009年まで活躍します。
7.キハ604(学問~御坊:1991年12月)
1991年の紀州鉄道訪問は年末の西日本早回り撮影の初っ端でした。
この日は天気が悪く、走行写真も気合が入りませんでしたが、このあと有田鉄道、野上電鉄、南海貴志川線を経由して、神戸から夜行のフェリーで高松の琴電に向かいました。