有田鉄道も紀州鉄道同様に、4年ぶりの訪問でした。前回訪問の様子は、第48話をご覧ください。
有田鉄道は、この4年間の車両の出入りは全くないばかりか、車両の改造も全くありませんでした。しかし、乗客は減る一方で、日中の列車は徐々にバスに振り替えられて本数が減っていました。全くバブル期を感じさせない状況でした。
1.キハ58001+キハ58002 (下津野~御霊:1990年2月)
この写真を見ると車両のせいか、国鉄時代のローカル線そのもので、何の感動もありません。この日は休日で乗客もほとんどいませんでしたが、日中に2連がやって来ました。恐らく、両運車のキハ58003が検査入場のため、やむなく2連を運用したものと思います。
2.金屋口駅貨物ホーム (金屋口:1990年2月)
有田鉄道は、かつてみかん輸送が盛んで、この金屋口にはご覧のような貨物ホームもありましたが、この当時はすでに貨物輸送は行われておらず、機関車ともども無用の長物と化していました。
この写真は金屋口の駅側から藤並方向を写したものですが、写真の左側の線路が本線です。
3.下津野駅 (下津野:1990年2月)
走行写真を撮影するため、藤並から下津野までタクシーを利用しました。列車本数が少ないのでやむを得ない出費でしたが、当時の有田鉄道のタクシー初乗り運賃が確か360円か380円でした。東京だと500円だったと記憶しますがこの運賃差はなんだったのか?
ところで、下津野駅は有田鉄道開業時の終点だったそうです。写真の右側は有田川で他に目立ったものは何もありませんでしたが、近くに高校があり、この頃はまだ通学利用が結構あったようです。
4.キハ58003 (下津野~御霊:1991年12月)
この写真は1991年12月に訪問した時の写真です。
この日、紀州鉄道に続いて有田鉄道を訪問しました。とりあえず、湯浅行の単行がやって来たので撮りましたが、ご覧の通り天気が最悪です。
5.キハ58003 (下津野~御霊:1991年12月)
この日はキハ58003が運用されていました。
この写真は、先程撮影した湯浅行の折返しを御霊近くの鉄橋で撮影したものです。しかしながら、単行のキハ58形は奇妙です。これに倣って?JR北海道にも末期の国鉄時代に両運化されたキハ53形-500番台が存在しましたが、こちらが元祖です。(なお、有田のキハ58形は元は国鉄車ではなく富士急行の発注車です。)
6.キハ58003 (下津野~御霊:1991年12月)
乗客がパラパラ乗っていますが、有田鉄道もこの車両では大き過ぎる感じです。しかし、藤並から湯浅まで、わずか1駅だけですが紀勢本線に乗り入れるためには、この車両でなければなりません。本来この車両は急行用のダブルエンジン車ですが、有田鉄道では入線時に1エンジン化しており、これは賢明な対応だったと思います。
写真の車両の床下中央右側に空いたスペースが見えますが、ここにかつてはもう1基のエンジンが付いていました。
有田鉄道は、訪問するたびに列車本数が減っていました。列車代行バスに徐々に切替わっていましたが、実態は並行する自社の路線バスに転換です。このままバス転換が進めば、いずれ列車はなくなってしまいそうな雰囲気でした。
全長わずか5.6kmの路線で、貨物輸送もなく、この程度の輸送需要で鉄道を走らせる理由が見えませんでした。