ローカル線の回顧録

1970年代後半から2000年頃までのローカル線の記録

第425話 1986年国鉄(北海道):酷寒の気動車

毎日異常な暑さが続いていますが、少しは気休めになるか、涼しい話題を探してみました。

1985年~1986年の国鉄時代の夏の北海道の様子を、第278話~第283話で報告しましたが、今回は1986年の冬の北海道の話題です。

いったい何のために、こんな寒い時期に北海道に行ったのか、いまだに不思議です。恐らく、暇な学生時代に、冬の北海道を見ておこうと、単純な理由だったのかも知れませんが、新得で体験した氷点下20℃は痛さを感じる程の寒さだったことを覚えています。

 

1.キハ22279他 (厚床:1986年3月)

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 この時も貧乏学生必携の北海道ワイド周遊券をフル活用しました。

当時はまだ夜行の急行列車が多く、周遊券さえ持っていれば、いざとなれば夜行列車をホテル代わりに使用できましたし、食事とお風呂と洗濯の時は、どこでも途中下車ができました。よって、旅行中の滞在費はほとんど食費程度で、酷寒の道内でも、お気楽に流浪生活が可能でした。

 

2.キハ22331+キハ22114 (厚床:1986年3月)

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 上野から夜行の急行八甲田号、青函連絡船、急行ニセコ号、急行まりも号、急行ノサップ号と乗り継ぎ、辿り着いたのが根室本線厚床でした。

上野から35時間。車中2泊で青函連絡船と急行ノサップ号以外は14系客車に座りっぱなしでした。

そして、厚床から超ローカル線の標津線に乗り換えて、目指すは根室標津です。なぜ、根室標津かと言えば、この日は珍しく鉄道目的ではなく、最果ての地である「トドワラ」に行くためでした。

 

3.キハ22279 (厚床:1986年3月)

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 この頃の根室本線は、辛うじて急行が運行されていましたが、とても本線を名乗るほど立派な路線ではなく、キハが1~2両で走るローカル線でした。この路線も翌年にはJRになりますが、北海道は廃止対象路線ばかりで、ここもどうなってしまうかわかりませんでした。

 

4.キハ22279 (厚床:1986年3月)

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 この頃の道東の気動車は、このキハ22形とキハ40形100番台が主力でした。私にとっては、どうでも良い車両でしたが、これしか走っていないので仕方なく撮影しました。

キハ22形は国鉄キハ20系一族のなかでは唯一のデッキ付き車両で、急行に混ざって連結されていても何ら違和感のない車両ですが、晩年はタラコ色に塗られてしまい、もうごまかしは効きません。そして、キハ40形100番代の出現で肩身が狭くなりました。

 

 

5.キハ22114+キハ22331 (厚床:1986年3月)

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 雪が降ってきました。この天気では、これから行く「トドワラ」が不安です。

 

6.キハ22114+キハ22331 (厚床:1986年3月)

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 厚床では標津線の接続が悪く、9:20の列車まで1時間半待ちでした。これが夏であれば、かつて駅前から出ていた簡易軌道風連線の馬車軌道跡でも散策して時間つぶしできますが、この時期に駅から出ると遭難の恐れがあるため、じっと駅の待合室で待機です。

当時、厚床駅の待合室はストーブで温かく極楽でした。気が付けば標津線の発車間際まで居眠りをしてしまいました。

 

7.キハ40130 (厚床:1986年3月)

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 待合室で居眠りをしていたので、いつの間にか標津線の列車が到着していました。
標津線の車両はまだ新しいキハ40形100番台でした。さすがに親方日の丸の国鉄です。どんなに赤字路線でも平等に新車が配属されました。しかしこの車両は自重40t近い本線規格の重量級です。華奢な標津線でよくぞ脱線せずに走っていたものです。