ローカル線の回顧録

1970年代後半から2000年頃までのローカル線の記録

第460話 1988年新潟交通:盛夏の越後平野(その2)

この日はやはり日曜日なので、同じスタイルの単行電車しか走っていませんでした。半日も撮影すれば飽きてしまいます。

 

1.モハ14 (燕~灰方:1988年8月)

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この日この時点で確認できた車両は、モハ12、モハ14、モハ25です。最初から期待はしていませんでしたが、休日の新潟交通はこんなもんでした。

 

2.モハ14 (燕~灰方:1988年8月)

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横道に逸れますが、昭和59年以降の新潟交通の時刻表が出て来ましたので、以下にご紹介します。この時刻表は、新潟交通が駅などで無料で配布していたもので、撮影の際には大変重宝しました。

今回は昭和59年、61年、63年の時刻表から、午前中の燕から白山前方面の抜粋です。注目いただきたいのは、燕側の区間運転の状況です。

 

3.昭和59年4月8日改正の時刻表抜粋

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 昭和59年の時刻表は、運行列車本数が最も多かった頃です。運用を見ると、日中の燕~六分間の区間運転が結構あります。また、燕高校の通学列車として、燕~灰方間の区間運転もありました。この頃の平日朝の3連は、燕発6:29(101列車)と6:53(103列車)の2本でした。この頃は、新潟側の起点駅の名称がまだ白山前ではなく県庁前でした。

 

4.昭和61年11月1日改正の時刻表抜粋

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昭和61年の改正では、運行本数が若干減りましたが、特に日中の燕~六分間の区間運転が燕発 10:28(501列車)のみとなりました。燕高校の通学列車は朝は白山前行に統合され、帰りの列車は存続していました。平日朝の3連は時刻も変わらず健在でした。ところでこの時刻表は、強引にも新幹線との接続まで記されています。当時は上野駅が新幹線の起点でした。上野から始発の新幹線に乗ると、燕発8:58の新潟交通の電車に乗れましたが、果たしてどの程度の利用があったのか?

 

5.昭和63年4月現在の時刻表抜粋

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 今回の投稿写真を撮影した昭和63年の時刻表では、列車本数が更に減りましたが、日中の燕~六分間の区間運転が一部復活して、燕~六分間は列車本数が1本増えました。燕高校の通学列車は定期列車に統合されてなくなりました。平日朝の3連は若干時刻が早くなりましたが、2列車とも健在でした。

 

6.モハ16 (燕~灰方:1988年8月)

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 さて、話を戻しますが、もう帰ろうかと思っていたら、燕行の旧車体のモハ16がやって来ました。

いつもこんな感じで、なぜか、帰ろうと思うとモハ16がやって来ます。すでに撤収態勢だったので、あわてて真横からの撮影となりました。

 

7.モハ16 (燕~灰方:1988年8月)

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 せっかくのモハ16なので、折返しの白山前行きも撮影することにしました。しかし、陽の向きが、いよいよ真横となり、仕方なくまた同じようなサイドビューの撮影です。

モハ16もガラガラで、側窓全開で走り去りました。

 

8.モハ11 (燕~灰方:1988年8月)

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 この日、最後の撮影は、燕駅近くの陸橋から住宅街を走るモハ11です。

燕は結構大きな街です。洋食器の製造で有名なところでもあり、新潟との人の交流もかなりあると思いますが、さすがに新潟交通の電車を利用していた人がどの程度あったのか?おそらくほとんどなかったものと思います。そのネックは、新潟交通の電車が新潟の繁華街や新潟駅に乗り入れていなかったことと、時代はすでに新幹線や高速バスが主流になっていたからです。ちなみに、新潟交通の電車で燕から白山前経由で新潟駅へ行くと1時間半以上かかりましたが、燕三条経由の新幹線利用では、特急料金は掛かりますが30分強といったところです。やがてバブル期と共に燕から新潟交通の電車は消えて行きます。