ローカル線の回顧録

1970年代後半から2000年頃までのローカル線の記録

第479話 1988年越後交通(長岡):復活の可能性を探る(その2)

今回は1988年4月の、大河津駅付近の長岡線と越後線の交差部分の様子を報告します。 国鉄と私鉄の平面交差は珍しく、しかも、国鉄は非電化で長岡線が電化されていました。本来であれば後から開業した長岡線が越後線をオーバーパスすべきですが、長岡線開業時の越後線はまだ私鉄時代であったことと、オーバーパスするにも大河津駅から距離が取れなかったのかも知れません。

 

地図3.引用:国土地理院地形図1/25000「寺泊」昭和48年発行

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地図3は、長岡線が寺泊新道まで現役だった1973年頃のものです。この地図を見ると、長岡線は大河津駅の西側で越後線と平面交差していましたが、完全な交差ではなく、2か所の分岐を介して一旦合流し、30m程の共用区間が存在していたことがわかります。

 

寺泊駅配線図.

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1988年当時の大河津駅付近の配線図に撮影ポイントを示します。

 寺泊新道~大河津間が廃止となった以降もしばらくは、この共用区間の分岐は残されていましたが、1980年代初頭に撤去されたようです。しかし、その後も元分岐付近には、長岡線の線路が、以下の写真の様にそのまま放置されていました。

 

写真5.大河津方向を望む法崎側の分岐点跡(法崎~大河津:1988年4月)

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 写真5は、長岡線が法崎側から越後線に合流する分岐点を長岡線の軌道敷から撮った写真です。写真では軌道敷が雑草で覆われていますが、レールは残っていました。そして木製に片持ち架線柱も残っていました。ちなみに越後線の架線が写っていますが、長岡線が現役だった頃の越後線は非電化でした。

 

写真6.法崎方向を望む大河津側の分岐点跡(大河津~法崎:1988年4月)

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 写真6は、写真5の反対側である大河津側の分岐点です。手前には長岡線の寸断されたレールが写っています。法崎側の分岐は二つ目の片持ち架線柱のあたりでした。

 

写真7.大河津方向を望む大河津側の分岐点跡(法崎~大河津:1988年4月)

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写真7は、写真6とほぼ同じ場所で振り向いて撮ったものですが、この先は大河津駅の構内となります。写真の左側の線路が越後線で、左側の草むらが長岡線の敷地です。越後線上越新幹線開業に合わせて電化されましたが、新幹線にお金をかけ過ぎたためか、予算の都合 満足に設備投資できませんでした。その結果が緑色の架線柱ですが、当時の国鉄らしからぬH鋼です。

 

写真8.法崎側から見た長岡線大河津駅の構内跡(大河津:1988年4月)

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写真8は、長岡線の大河津駅の構内跡です。レールも架線柱も信号機もそのままです。 

 

写真9.法崎側から見た長岡線大河津駅の構内跡(大河津:1988年4月)

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 写真9は、長岡線大河津駅のホーム跡です。ホーム上の雑草が廃線を物語っています。この駅は1975年3月末まで長岡線の電車が発着していました。廃止から13年が経っていましたが、これを見ると復活を目論んでいたことが本当のように思えます。