ローカル線の回顧録

1970年代後半から2000年頃までのローカル線の記録

第484話 1988年越後交通(長岡):復活の可能性を探る(その7)

越後交通長岡線の路線は、越後平野の西端を丘陵に沿う様に敷設されました。よって、信濃川と丘陵に挟まれた狭い平地を通っており、沿線人口は希薄で、大きな街は与板町くらいでした。

与板から西長岡側は、信濃川が丘陵から離れて平地が広がるので、広大な田園地帯となり、長岡線も田園を通りますが、なぜか集落から離れて無人地帯を通っていました。やはり長岡線の敷設は歓迎されていなかったようです。

 今回は、その田園地帯の槇原から王寺川間の廃線跡です。

 

地図8.引用:国土地理院地形図1/25000「与板」、「長岡」

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地図8は、槇原から王寺川付近の撮影ポイントを示します。越後交通長岡線は槇原を過ぎると集落を避ける様に田圃のど真ん中を通っていました。 

 

写真34.脇野町側から見た越後大津駅跡(越後大津:1988年4月)

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 写真34は、槇原から1.6km、大河津駅から13.7km地点の越後大津駅跡を脇野町側から撮影したものです。レールも架線柱もしっかり残っていましたが、ホームは土台の杭だけになっていました。

 

写真35.越後大津方向を望む廃線跡(脇野町~越後大津:1988年4月)

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廃線跡に突如大きな鉄橋が現れました。写真35は、越後大津~脇野町間に残っていた黒川橋梁です。道路橋は少し離れた場所にありましたが、迂回するのが面倒だったのでこの橋を恐る恐る渡りました。まだ枕木も朽ちてはなく、線路の真ん中に板が敷いてあったので支障はありませんでした。

 

写真36.黒川橋梁(越後大津~脇野町:1988年4月)

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 写真36は、黒川橋梁を横から撮ったものです。けっこう大きな遺構です。 これだけ立派な鉄橋なので撤去するのも大変そうです。

 

写真37.脇野町駅舎跡(脇野町:1988年4月)

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 写真37は、脇野町駅跡に残っていた駅舎です。当時、廃線跡で駅舎が残っていたのはここだけでした。それほど傷みもなく、管理されている様子でした。

 

写真38.越後大津側から見た脇野町駅跡(脇野町:1988年4月)

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写真38は、越後大津から1.1km、大河津駅から14.8km地点の脇野町駅跡を王寺川側から撮影したものです。脇野町駅もl広い構内の交換駅でした。駅の東側には大きな木造の倉庫があり、恐らく米の出荷が行われていたものと思われます。 

 

写真39.脇野町方向を望む廃線跡(王寺川~脇野町:1988年4月)

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 写真39は、王寺川~脇野町のちょうど中間地点です。気の遠くなるような直線区間です。周辺には民家が全くありません。次の王寺川まで駅間2.5kmはこんな感じでした。