越後交通長岡線の廃線跡は、脇野町を過ぎると完全な無人地帯でした。この辺りは冬場は危険です。新潟交通もそうでしたが、地吹雪に遭遇したら、小説の「八甲田山死の彷徨」そのものになってしまいそうです。遭難したら田植えが始まる頃まで助けは来ないでしょう。
今回は、王寺川から越後関原までの廃線跡と、その先の現役区間の上除の様子です。
地図9.引用:国土地理院地形図1/25000「長岡」
地図9は、王寺川から上除付近の撮影ポイントを示します。地図を見ると、廃線跡は越後関原付近まで見事に無人地帯を直進しています。
写真40.越後日吉側から見た王寺川駅跡(王寺川:1988年4月)
写真40は、脇野町から2.5km、大河津駅から17.3km地点の王寺川駅跡を越後日吉側から撮影したものです。写真には建物が写っていますが、人家ではなく、こんな田圃のど真ん中になぜ駅が出来たのか理解できません。ところで、この付近から架線も残っていました。こうなると、その気になれば電車復活は戯言でもなさそうです。
写真41.越後関原側から見た越後日吉駅跡(越後日吉:1988年4月)
写真41は、王寺川から0.9km、大河津駅から18.2km地点の越後日吉駅跡を越後関原側から撮影したものです。王寺川から駅間が短いのですが、ここも周りに何もなく、なぜ駅があったのか全く理解出来ません。
写真42.越後日吉方向を望む廃線跡(越後関原~越後日吉:1988年4月)
北陸自動車道と交差する手前の廃線跡に、突然タンク車が現れました。ここは廃止区間ですがタンク車の留置場所に使用されていました。と、言うことは廃止区間なのにここまで機関車も入って来ると言うことです!!だから架線が残っていた!!。別な見方をすれば、ここは廃線跡ではなく物置場のようなものです。しかし、架線が残っていた王寺川までは機関車が走れたわけで、認可上どうなっていたのか?
写真43.上除側から見た越後関原駅跡(越後関原:1988年4月)
写真43は、越後日吉から1.2km、大河津駅から19.4km地点の越後関原駅跡を上除側から撮影したものです。ここからは現役路線となります。 しかしこの当時でもここまで来る定期の貨物列車はなく、レールも錆て休止路線の様でした。ところで、大量に留置されたタンク車はいったい何なのか?石油の備蓄でもしていたのか?
越後関原まで来れば西長岡まであと一息です。この先は現役路線ですがついでに報告します。
写真44.越後関原側から見た上除駅跡(上除:1988年4月)
写真44は、越後関原から1.2km、大河津駅から20.6km地点の上除駅跡を越後関原側から撮影したものです。すでに旅客輸送はありませんが、ホームが残っていました。この区間はまだ現役の路線なので電車がやって来そうな雰囲気です。この当時は、この先に見える日越のセメントプラントまで貨物が不定期で出入りしており、機関車の機回しでこの上除までは機関車が来ていたようです。路線もセメントプラントへの側線が本線に併設されていたので、この上除~日越間は複線のようになっていました。