ローカル線の回顧録

1970年代後半から2000年頃までのローカル線の記録

第486話 1987年越後交通(長岡):復活の可能性を探る(その9)

1988年4月に行った越後交通長岡線廃線跡探訪は、2日間掛けて大河津から西長岡まで歩きましたが、越後関原から西長岡までは、まだ現役の路線だったので、上除から先はまともな写真を撮らずじまいでした。なお、当時の現役区間はその前年に調査していましたので、今回は上除の次の日越から西長岡までを前年の1987年に撮影した写真で報告します。

 

地図10.引用:国土地理院地形図1/25000「長岡」

f:id:kk-kiyo:20200223173725j:plain

 地図10は、越後関原から西長岡までの撮影ポイントを示します。この区間は、長岡市街に近いので住宅街を通ります。繰り返しになりますが、この区間は貨物専用鉄道として現役でした。しかし貨物列車の撮影はできないまま、この区間は1992年に休止され、1993年3月に廃止されました。

 

写真45.西中学校前側から見た日越駅跡(日越:1987年5月)

f:id:kk-kiyo:20200223173824j:plain

写真45、46は、1987年5月の雨の日の撮影です。ネガスキャンではなく、退色したプリントからのスキャンで、画像が不鮮明ですがご了承願います。 

写真45は、上除駅から0.8km、大河津駅から21.4km地点の日越駅跡を西中学校前側から撮影したものです。第485話の写真44と対向する写真です。日越には上除側で分岐する側線がありました。写真のホームの右側に門型架線柱が写っていますが、その線が側線です。架線が残っていましたが、すでに使われていない様でした。

 

写真46.日越側から見た西中学校前駅跡(西中学校前:1987年5月)

f:id:kk-kiyo:20200223173844j:plain

 写真46は、日越駅から1.4km、大河津駅から22.8km地点の西中学校前駅跡を日越側から撮影したものです。西中学校前駅は1969年に開設された新しい駅でしたが、旅客営業が1975年に廃止となったので、わずか6年間しか使用されませんでした。ホームも土盛りではなくコンクリート製で、旅客廃止後も朽ちることなく残っていました。この路線が貨物専用であることを知らない人は、このホームで列車を待ってしまいそうです。やはり、旅客営業の復活を目論んでいたのか?

 

写真47.西中学校前側から見た西長岡駅跡(西長岡:1987年9月)

f:id:kk-kiyo:20200223173904j:plain

  写真47、48は、1987年9月に撮影したもので、第415話で報告した写真です。

写真47は、西中学校前駅から0.9km、大河津駅から23.7km地点の西長岡駅跡を西中学校前側から撮影したものです。西長岡駅の構内は広く、その北側のエリアがかつて旅客用の駅構内でした。既に旅客営業はないので、当然駅舎などもありませんが、線路やホーム、そして架線などはそのままでした。

 

写真48.西中学校前側から見た西長岡駅構内(西長岡:1987年9月)

f:id:kk-kiyo:20200223173926j:plain

 写真48は、構内の南側を撮影したもので、現役の西長岡構内です。構内の大半は貨車の留置ヤードでした。当時の貨物輸送は来迎寺~才津間のセメント輸送以外は微々たるもので、定期で西長岡まで来る貨車はなかったと思われますが、この広い構内は何のために維持されていたのか不可解です。やたらとタンク車が目立ちますが、これも石油備蓄用なのか?

 

図11.引用:国土地理院地形図1/50000「長岡」昭和48年発行

f:id:kk-kiyo:20200223173948j:plain

ご参考までに、地図11に昭和48年(1973年)発行の長岡市内地形図を示します。まだ長岡線が旅客鉄道として現役だった頃のもので、信濃川対岸の長岡駅からは栃尾線来迎寺駅からは国鉄魚沼線の路線が記されています。また、長岡線の西長岡からは、日産化学の専用線が延びており、西長岡からは3方向に路線が出ていたことがわかります。日産化学の専用線は1972年に廃止され、同年に西長岡~来迎寺間の旅客営業も廃止されました。

さて、9連載となりました越後交通長岡線の、寺泊から西長岡までの廃線探訪は以上で終わりです。改めて1988年当時を総括すると、1975年に廃止された大河津から越後関原間はほとんど放置状態でした。すでに廃止から13年を経過しており、これを復活するのは線路の敷直しが必要と思われ、そう簡単に復活はあり得ないと思われました。一方、当時貨物線として現役だった区間はいつでも旅客化は出来そうでした。ところが、世の中は地方の公共交通機関離れが当たり前の時代になっていました。長岡線の場合も沿線の過疎化や長岡駅に乗り入れていないハンディキャップが致命的です。現役区間の貨物輸送ですら、いつなくなるのか、なくなれば廃止は避けられない状況になっていました。

その後、細々と営業を続けていた越後交通の貨物専用線も1995年に廃止され、長岡線復活の夢は、結局夢に終わってしまいました。しかし、あれから33年が経過した現在でも廃線跡の遺構は点在しているようです。このあたりの情報は、最近廃線探訪を実施された方々のブログをご参照願います。なお、廃線探訪は危険がいっぱです。実施時期は春先が良いと思います。そして、単独行動は避けた方が無難です。