ローカル線の回顧録

1970年代後半から2000年頃までのローカル線の記録

第556話 1991年日立:本当の合理化は車種統一にあり!

1991年4月に、4年ぶりとなる日立電鉄を訪問しました。

この4年間、お隣の茨城交通湊線あたりまでは出向きましたが、なぜか勝田から先は敷居が高く、気が付けば4年も経っていました。しかし、4年目にしてなぜ日立電鉄まで足を伸ばしたのかと言うと、ここの車両もそろそろ置き換えの話しが決まったからです。

日立電鉄は早くから合理化を徹底してきましたが、なぜか車両は雑多な中古車ばかりで、しかも運用にあわせて、ラッシュ専用と閑散時専用の車両を保有するなど、非効率な車両が多く、肝心なところが抜けている様に思えました。しかし、合理化の矛先がようやく車種統一に向き、これで本来の合理化が達成に向けて前進することになりましたが、そうなると、せっかく確立した日立電鉄流改造車の美学もここまでです。車種統一されれば、つまらなくなることは目に見えました。

 

1.モハ15、モハ9 (大甕:1991年4月)

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 さて、実はこの日の午前中は茨城交通で撮影をしていました。4年ぶりの日立電鉄ですが、この日は休日だったのでラッシュもなく、どうせ単行しか走っていないだろうと、手を抜いてしまいました。

先ずは大甕駅の様子ですが、右のホームに止まっているモハ9が運用中の車両で、左のモハ15は昼寝中の車両です。この2両は共に両運のワンマンカーです。両運車は通常連結運転されることはありませんが、どの車両も片側が貫通化されていました。写真のモハ9とモハ15は共に常北太田寄りが非貫通でした。この両車の生い立ちは全く異なりますが、いずれも車体改造により、似たり寄ったりの機能本位な面構えになりました。しかしこれが日立電鉄流改造車の美学でした。

 

2.モハ15 (大甕:1991年4月)

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 今回は、この日撮影した食パンスタイルのモハ13形の写真をまとめてみました。モハ13形はモハ13~16の4両が在籍していました。4両共元相模鉄道の電気式気動車で、相模鉄道時代に電車化されたもので、1948年に全車が日立にやって来ました。当初はオリジナルの角ばった流線形でしたが、日立電鉄のセンスに合わなかったのか、1965年にこの様な食パンスタイルになってしまいました。

 

3.モハ13 (鮎川:1991年4月)

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 モハ13形は全長13.5mの小型車です。大型の路面電車並みの大きさですが、日中の単行運転にはちょうど良い大きさだったと思います。日立電鉄では早くも1971年にこの電車をワンマン化しました。一般鉄道におけるワンマン化の先駆けは、関東鉄道龍ヶ崎線で、日立電鉄はタッチ差で2番目でしたが、龍ヶ崎線は中間駅がたったの一つなので、ワンマンの本格的な運用は日立電鉄が初めてと言っても良いかも知れません。

 

4.モハ14他 (鮎川:1991年4月)

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 モハ13形は片側貫通となっていましたが、2連を想定したのか、奇数車と偶数車で貫通面の向きが異なり、モハ12とモハ14は常北太田寄りが貫通となっていました。

 

5.モハ13 (常北太田:1991年4月)

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 モハ13形を含めて、両運のワンマンカーは10両在籍していました。この10両はラッシュ時には運用されず、当時は日中の運行はほぼ40分ヘッドだったので、3列車運用です。よって、7両は一日中昼寝となり、車両が多すぎるのではないかと思われました。

 

6.モハ16 (久慈浜:1991年4月)

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 さて、旧型車の置き換えにより、貴重な元電気式気動車の成れの果てであるモハ13形もいよいよ見納めです。これが原型を留めていれば保存の話しも出たでしょうが、この食パンでは引き取り手はありません。