ローカル線の回顧録

1970年代後半から2000年頃までのローカル線の記録

第559話 1987年JR北海道:もう一度最果て

1987年8月、 社会人になった最初の夏季休暇に、これが最後になるだろうと、標津線に向かいました。すでに標津線国鉄ではなく、JR北海道になっていましたが、「最後になるだろう」とは、標津線が廃止対象路線になっていたからです。

 

1.キハ40132 (根室標津:1987年8月)

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 今回の渡道は4回目となりました。学生時代とは違い、一応社会人の身分ではありましたが、相変わらず貧乏旅行から脱せず、今回も上野発の夜行列車で向かいました。とは言え、学生時代の様に時間はなく、北海道の滞在は行き帰りの移動日を含めて5日間です。実質フルに使えるのは3日間。よってピンポイントで標津線撮影となりました。

 

2.キハ40132 (根室標津:1987年8月)

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 最初に向かったのは、最果ての根室標津でした。上野を出て翌々日の夕方に辿り着きました。まずは、乗って来たキハ40132の撮影です。キハ40132には、しっかりとJRマークがついていました。

そして、この日は民宿泊まりです。結構混んでいたので知らない学生風の人と相部屋でした。そして翌日は早朝から武佐川の湿原あたりで撮影です。

 

3.キハ22249 (根室標津~川北:1987年8月)

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 ところが、翌朝はこの霧です。そういえば、この時期の道東は晴れても霧の日が多く、作戦をミスってしまいました。が、しかし、そこは霧を逆手に取って幻想的な撮影にチャレンジです。

 

4.キハ22形2連 (根室標津~川北:1987年8月)

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 霧の撮影は、南部縦貫鉄道や栗原電鉄でさんざん悩まされましたが、道東の霧はそれらと比べものにならないくらい強烈です。立っているだけで全身ずぶ濡れになるほど湿気を含んでいます。傘も役に立ちません。

 結局、3列車撮影して撤収です。まあ、そのうち晴れるはずなので撮影場所を移動することにしました。

 

5.キハ22114 (根室標津:1987年8月)

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腕木信号機の先は、根室標津駅です。ここが最果ての駅ですが、こんなところまで鉄道を敷設した理由は、北海道開拓の物資輸送のためだったそうです。まともな道路もなく、馬車軌道がベースの殖民軌道では限界だったことから標津線は建設されました。最初は厚床から建設が始まり、厚床中標津間の開通が1934年。つづいて、標茶根室標津間の開通が1937年です。

しかも、根室標津から折り返して斜里と結ぶ路線も一部で建設が着手されていたそうです。ちなみに斜里側は先行して建設が始まり、斜里~越川間は根北線として1957年から1970年まで存在しました。しかし、根北線の廃止で、根室標津~斜里間の計画は消滅しました。

 

6.キハ22114 (根室標津:1987年8月)

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 根室標津駅には、キハ22114が発車を待っていました。この車両も路線廃止と共に廃車になる運命ですが、このタラコ色には何の感動もありませんでした。