ローカル線の回顧録

1970年代後半から2000年頃までのローカル線の記録

第679話 1992年箱根登山:輸送力限界の頃(その2)

この当時の箱根登山鉄道は、輸送力が限界の様でした。

単線であるが故に、列車本数を増やすことが出来ず、路線の制約から増結することも出来ません。辛うじて箱根湯本までは小田急の電車が乗り入れていたので何とかなっていた様ですが、観光シーズンの箱根湯本駅では、強羅方面に向かう小田急ロマンスカーからの乗り換え客が2両編成の電車に乗り切れず箱根湯本駅では大混乱状態もしばしば。

 

1.モハ106+モハ104 (上大平台信号所~仙人台信号所:1992年4月)

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 そんな状況を放っておくわけにもゆかず、箱根登山鉄道では3連化の準備をしていました。この翌年には地上側の改修も完成し3連化が始まります。

 

2.クモハ2004+クモハ2003 (上大平台信号所:1992年4月)

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2連の2000系(注1)も、翌年に中間車モハ2000形を新造して3連化され、1997年に増備の第3編成は当初から3連となりました。しかし、1000系の3連化は見送られました。

(注1)2000系の車歴

・箱根登山クモハ2001+クモハ2002:1989年川崎重工

・箱根登山クモハ2003+クモハ2004:1991年川崎重工

 

3.クモハ2002+クモハ2001 (上大平台信号所:1992年4月)

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 ところで、面白いのがその後の話しですが、2004年に1000系がいよいよ冷房化され、合わせて3連化も実施されましたが、この時中間車となったのは、1993年に新造されたモハ2000の転用でした。これによって、2000系の第1,2編成は再び2連に逆戻りです。これは、1000系の冷房化が艤装スペースの関係で十分な容量の補助電源装置が搭載できなかったための苦肉の策だった様ですが、それだけ1000系の冷房化が最優先だったと言うことです。さすがにモハ2000形を新製するほど余裕がなかったのか、その後も現在に至るまで2000系は2連のままですが、幸いVVVF制御で両運車の3000系が2014年に新造され、これとコンビを組んで3連化が図られました。

 

4.モハ110、クモハ2004+クモハ2003 (上大平台信号所:1992年4月)

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 一方、旧型車ですが、3連化のあおりで台車を2000系に譲ったモハ111,112の廃車以降はしばらく安泰でした。

 

5.モハ114+モハ2形 (上大平台信号所~大平台:1992年4月)

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 モハ114はこの時点唯一残っていたモハ3形です。モハ3形はモハ2形と同時期に同じメーカーである川崎車輌で製造されましたが、台車が川崎製の板台枠タイプだったため、モハ3形と区分されました。モハ3形は川崎製の台車を1975年に東急車輛製のTS110-Aに交換されましたが、旧型車のなかで一番早く消滅します。

 

6.モハ114+モハ2形 (上大平台信号所:1992年4月)

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 モハ2形のモハ111,112が廃車となったので、このタイプで川崎車輌製は、この車両だけになってしまいましたが、仲間がいなくなったためか、モハ114は1997年に廃車されました。