ローカル線の回顧録

1970年代後半から2000年頃までのローカル線の記録

第797話 1990年別府:面影を求めて(その2)

さて、ここから別府鉄道ネタに入ります。

当時、別府鉄道の野口線跡は既に遊歩道に整備されていました。もう線路敷の面影もなく、歩いていても面白くも何とも感じませんでしたが、沿線にわずかな保存車両が点在していました。

 

1.キハ101(保存車) (別府町中島公園:1990年2月)

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 かつての別府港駅に近い中島公園には、キハ101が保存展示されていました。当時はまだそれほど荒廃はしておらず、何とか原型を留めていました。ただし、塗装色が変でした。この色は別府鉄道には存在しなかった色で、片上鉄道晩年の色に近い感じがしますが、それでもなさそうです。

 

2.キハ101(保存車) (別府町中島公園:1990年2月)

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 この保存車は、山陽新幹線の車窓からも一瞬見ることが出来ました。車両の周りはフェンスで囲まれていましたが、公園なのでフェンスが壊されている部分もあり、フェンス内に入ることができました。

 

3.キハ101(保存車) (別府町中島公園:1990年2月)

f:id:kk-kiyo:20210411175911j:plain幸い車両は、悪ガキ達に壊された形跡はなさそうでしたが、やはり経年的に劣化しており、雨樋が崩れ始めていました。

 

4.キハ101車内(保存車) (別府町中島公園:1990年2月)

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 ドアに鍵が掛かっていたので、車内には入れませんでしたが、妻面の窓越しに車内撮影をしました。腰掛の座ブトンがしっかりはまっていない様ですが現役当時のままです。乗車時間の短い路線でしたが、灰皿も確認できます。この車両は片上鉄道時代に改修を受けていますが、背ズリの低い木製の腰掛、網棚など元国鉄キハ41000形の面影は十分に残っていました。

 

5.キハ2(保存車) (円長寺駅跡:1990年2月)

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 廃線跡の遊歩道を歩いていると、ブルーシートに覆われた車両らしき物体が放置されていました。懐かしいピンク色がのぞいています。どうやらキハ2の様です。そしてここは、円長寺駅跡でした。

 

6.キハ2(保存車) (円長寺駅跡:1990年2月)

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 キハ2は地元に保存されたと聞いていましたが、ここにあることは知りませんでした。しかし、これでは保存ではなく放置です。このままどうなってしまうのか、この先のことなど全くわかりませんでしたが、まもなくここは公園として整備されて、まともに保存展示されました。

 

7.1976年~1980年頃 乗車券類(車内補充券)

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これらは、私が訪問していた頃の別府鉄道の乗車券類です。乗車券も並べて見ると、券面の様式や料金など、その変遷が面白いです。まずは車内乗車券です。左の大きいピンク色の車内券は別府鉄道ではなく、国鉄高砂線に乗車した際に購入したものですが、この切符は加古川車掌区乗務員発行の播但線と関係支線用となっており、高砂線の他にも国鉄民営化で廃止となった鍛冶屋線、三セク化された粟生線、三木線の駅名も記載されています。その他の小さい切符が別府鉄道の車内券ですが、野口線と土山線の全駅名が記載された切符は1977年頃までのものです(No.58,89)。その後1979年頃になると駅名の記載が省略されて、日付をパンチする野口線と土山線の線区別のものとなります(No.11,13,75,88)。さらに1980年頃になると野口線と土山線共用となりました(No.49)。

 

8.1976年~1984年頃 乗車券類

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普通乗車券は、ご覧の硬券でした。有人駅の別府港では線内以外にも国鉄連絡切符や入場券も販売されていました。写真の加古川までの切符が国鉄連絡切符ですが、昭和50年頃は80円だったものが国鉄の料金値上げで一挙に230円になっています。昭和51年~昭和55年の料金値上げで国鉄運賃は2倍以上に跳ね上がり、郵便料金なども便乗値上げされました。衝撃的な値上げでした。国鉄から別府鉄道線内への切符は販売されていたのか不明ですが、山陽本線土山駅では別府港までの切符を委託販売していました。最下段の黄色い切符は廃止時の別府港駅の入場券ですがこれは貰い物です。別府鉄道は産業鉄道らしく、廃止時も記念切符などはなかった様です。