ローカル線の回顧録

1970年代後半から2000年頃までのローカル線の記録

第822話 1993年新潟交通:最後の燕(その3)

部分廃止とは言え、7月末の廃止はずいぶん中途半端な時期です。そして、雨は全くやみません。名残の雨だったのでしょうか。

ところで例年であれば、7月末ともなればもう梅雨も明けているはずですが、1993年はどうだったのかと言うと、なんと梅雨明けがなかった年でした。(端的に言うと、気象庁が梅雨明け宣言をしませんでした。要するに気象的にメリハリがなかったということです。)

 

1.モハ14 (六分:1993年7月)

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 ジャスコ電車のモハ14が到着しました。明日からは、もうこの電車でジャスコに買い物に行くことも出来ません。しかし、ここから電車で東青山のジャスコへ買い物に行く人はいたのか?そう言えば、以前は六分始発で燕行きの、「お買い物電車?」も走っていましたが、誰も乗っていなかった様でした。恐らく、このあたりに住んでいる人は、燕三条あたりに車で買い物に出かけているのではないかと思います。すでに電車で買い物に行く時代ではありませんでした。

 

2.モハ14 (六分:1993年7月)

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 この電車も満員です。雨なので六分では降りる人もいません。そして、モハ14は燕に向けて出発して行きました。

 

3.クハ49+クハ50 (六分:1993年7月)

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 六分の留置車達は、この時点では、まだ廃車になっていませんでしたが、すでに燕で長らく放置されていたためか、ずいぶんくたびれている様に見えます。雨に打たれる姿を見ていると、なんだか悲しくなります。

 

4.六分駅 (六分:1993年7月)

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 ここにも、灰方と同じ廃止の装飾が飾られていました。

 

5.六分駅 (六分:1993年7月)

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六分駅は、ずいぶん大きな駅でした。きっと昔は、この辺の米の出荷の拠点だったのでしょう。 晩年は、この駅を始発とする列車も設定されていましたが、駅員は請負で午前中のある時間帯しか居なかったようです。

 

6.クハ49+クハ50 (六分:1993年7月)

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 ふたたび、雑草とたわむれる留置車です。元小田急デハ1400形、クハ1450形の車体を流用した車両達ですが、一挙に5両が淘汰されました。幸い2両は残ることになりましたが、古い小田急電車の残党もかなり減ってしまいました。

 

7.クハ50 (六分:1993年7月)

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 クハ50のお尻の写真です。お尻も非貫通でした。新潟交通のクハは、クハ49,50を除きワンマン化されていました。2連もワンマン運転されていたわけですが、全車が非貫通なので後部車両の客扱いが大変だったと思います。