ローカル線の回顧録

1970年代後半から2000年頃までのローカル線の記録

第907話 1993年筑豊:元西鉄連接車が主役の頃(その4)

続いて筑豊電鉄の沿線です。この辺りは、かつては筑豊炭田で栄えた一帯でした。この近くにもかつては香月炭鉱があり、国鉄香月線も存在していました。しかし、炭鉱は昭和40年代には相次いで閉山となり、1985年には香月線も消えて行きました。

 

1.3005B+A (楠橋~香月:1993年11月)

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 国鉄の炭鉱路線が廃止されるなか、筑豊電鉄が残ったのはこの路線が旅客輸送専業で北九州市の近郊路線としての地位が確立されていたからだと思います。

 

2.2002A+C+B (楠橋~香月:1993年11月)

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 筑豊電鉄は決してローカル線ではありません。列車は頻繁にやって来ました。黒崎と直方を結ぶインターアーバンとして定着していました。

 

3.3003B+A (楠橋~香月:1993年11月)

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 とは言うものの、楠橋あたりは大変長閑な農村地帯でした。現在はどうなっているか知りませんが・・・。

 

4.3003B+A (楠橋~香月:1993年11月)

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 この頃の筑豊電鉄は、バブル期の影響なのか輸送需要も右肩上がりでした。特にラッシュ時は相当な混雑だった様です。それなのに3000形は3連接ではなく、2連接となりました。種車が2連接だったので仕方ないのかも知れませんが、やはり2連接と3連接では輸送力は全く違います。将来的に3連接化も考慮されていたのかわかりませんが、結局現在も2連接のままです。

 

5.2000形B+C+A (香月~楠橋:1993年11月)

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 そうこうしているうちに、昨今では輸送需要が低迷してきたようです。

ちなみに各形式の編成定員は下記の通りです。

・2000形(3連接):175人

2100形(2連接):130人

・3000形(2連接):96人

・5000形(3車体LRV):87人

2000形は極端に定員が多く、5000形の2倍です。そして、2100形に比べて3000形は同じ2連接車なのに、定員が34人減っています。恐らくこれは、2000形、2100形軌道法か旧法(地方鉄道法)に準じた設計のため、いわゆる定員計算の条件となる客室床面積の一人当たりの占有面積に0.28㎡を採用していたためと思います。ちなみに普通鉄道の場合、現在はJISで0.3㎡と規定されています。

 

6.2006A+C+B (楠橋~香月:1993年11月)

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 定員は路線の輸送力を検討するのに重要な数値ですが、この様に異なる基準が混在すると何が何だか全く意味を成しません。結構適当です。しかしながら、鉄道事業法に準拠の3000形が定員96人に対し、LRV5000形は更に少ない87人です。現在ではこの程度の輸送力でも足りてしまうとは・・・。