ローカル線の回顧録

1970年代後半から2000年頃までのローカル線の記録

号外:国葬の日、そうだ蒲田に行こう!!

昨日は安倍元首相の国葬の日でした。

ところで私は、今頃遅い夏休みを頂いており、昨日は九段下の国土地理院へ地形図の閲覧に行く予定でしたが、偶然、国土地理院国葬が開催される武道館のすぐ近くです。弔問や警護で人が多そうだったので、昨日は予定を変更して国土地理院へ行くのをやめました。国土地理院の地形図閲覧は平日しかやっていないので、残念ですがまたの機会に延期です。

それはそれとして、せっかくの夏休みです。国土地理院を諦めて、さあどうするか?・・・・で、思いついたのが、あそこです。そうだ蒲田に行こう!!

蒲田へガラクタを見に行きました。

 

ここは、通称「ガラクタ公園」こと、京急大鳥居駅の近くにある萩中交通公園です。平日の朝なので邪魔者はいません。異様な雰囲気ですが、この様な場所の撮影は平日に限ります。ここには各種ガラクタが展示されており、都電7008もガラクタの一つです。そして・・・

 

ここには、こんなのもあります。これもガラクタ? でも、これをガラクタと言っては失礼です。

 

その正体は、「ピーコック」です。なぜか、敵陣の京急沿線に由緒ある「東武のピーコック」が!!。

 

さすがに、腐っても舶来品です。ちゃんと屋根付きの展示でVIP待遇です。でも、こんな敵陣で祀られるよりも、C11の代わりに日光あたりで走らせたい逸品です。

さて、さて、私は都電やピーコックを見に来たのではありません。蒲田はかつて私が勤務していた街でして、久しぶりに、アイツに会うためでした。それは・・・

 

いきなり、お尻の股下から再会です。これでは何のこっちゃ、さっぱり分かりませんが、左上に写る先端が潰れたパイプはマフラーです。そして正面の黒い物体はギヤボックス。

 

かなり厳しい画像で申し訳ございません。なんともシンプルなロッド駆動です。

これで正体が明らかになったと思いますが、もう一つヒントです。

 

昭和30年加藤製作所製!!こんな銘板が付いていました。

 

これが久々に再会したアイツ(5t加藤)です。なぜここに展示されているのか疑問ですが、かれこれ30年ぶりでしょうか。思っていたよりもガラクタではありません。焦げ茶色のボディーとエンドビームのトラ塗りがバッチリ決まっています。

 

説明によると、「駅の構内や工場内で車両の入換作業やトロを牽引して保線作業に使用・・・」とは、たしかにその通りですが、特筆すべきことなのか? 何とも単刀直入な説明です。

ちゃんと経歴も。尼ヶ崎、玉造、東觜崎・・・・ここは蒲田ですが、縁もゆかりもなさそうです。

 

この車両をここに展示することになったいきさつが知りたいところですが、ピーコックも5t加藤も対等に展示されていることに感謝です。

 

昨日は穏やかな国葬の日でした。

そして、昨日は忘れてはいけないモノを再発見しました。

第864話 1994年JR小野田:西の茶色い旧国(その2)

この日は土曜日だったので、昼すぎに運行される列車を撮影して、その後は夕方の運行まで暇つぶしに沿線をロケハンしました。しかし、全線僅か2.3kmの路線なのであっという間に往復してしまい、結局夕方まで雀田駅で暇つぶしでした。

 

1.クモハ42001 (長門本山:1994年7月)

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 そして、夕方の1番電車に乗って、終点の長門本山へ行きました。乗車時間はたったの5分程です。写真は長門本山に停車中のクモハ42001です。しかし、この駅の周辺は何もありません。線路の先は造成中の宅地ですが、そこはかつて炭鉱があった跡地の様で、その先は海です。はるか遠方には九州の山並みが霞んでいました。

 

2.クモハ42001 (長門本山:1994年7月)

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この日は、クモハ42001が運用されていました。本山支線のモハ42形(注1)は、当時2両が交番で使用されていました。もう1両はクモハ42006です。

以前はすぐ近くの宇部新川にある車両基地で列車検査も行われていましたが、この頃は下関車両管理室の所属となり、列車検査は下関で行われていたので、月、水、金曜日は日中の留置時間を利用して下関まで回送で1往復していました。と、言うことは、クモハ42形は山陽本線も走っていたわけです。

 

3.クモハ42001 (長門本山:1994年7月)

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 (注1)本山支線用クモハ42形の車歴

・JR西クモハ42001,006←国鉄クモハ42001,006←国鉄モハ42001,006:1934年川崎車輌

クモハ42形は元々関西地区の東海道山陽本線電化区間用の20m級両運クロスシート車として13両が製造されました。戦前は同形のモハ43形やクハ58形等と一緒に使用され、戦後は関東に転じて横須賀線伊東線で使用の後、1957年に3両が宇部小野田線にやって来ました。

 

4.クモハ42001 (長門本山:1994年7月)

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 列車の折返しの時間を利用して、クモハ42を観察しました。クロスシート用の小窓が並ぶ側面はなんとも言えない渋さが漂っています。

 

5.クモハ42001 (長門本山:1994年7月)

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 クモハ42形の印象は、鶴見線クモハ12形とは違い、やはり20m2扉のクロスシート車であるため、堂々としていました。しかし、年代物であることから、全線僅か2.3kmの路線をピストン運行するのはちょうど良い余生の送り方の様に思えました。

 

6.クモハ42001 (長門本山~浜河内:1994年7月)

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 再び沿線撮影です。夕方以降は5往復の運行となり、夏場は3往復撮影できました。このあと撮影のチャンスは4回です。

 

7.クモハ42001 (浜河内~長門本山:1994年7月)

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 鶴見線クモハ12形の撮影時もそうでしたが、茶色い車両はカメラの露出に悩みます。絞り過ぎると電車が黒くなってしまい、かと言って絞らない周りが白っぽくなり、スキャナーで補正するとたいていは粒子が現れます。

第863話 1994年JR小野田:西の茶色い旧国

1994年7月、滞在先の広島から、たまには琴電一畑電鉄以外にも行って見ようと思い、山陽路を鈍行で小野田線に向かいました。お目当ては本山支線のクモハ42形です。このころ、鶴見線にはまだクモハ12形が運用されていましたが、小野田線のクモハ42形も張り合う様に健在でした。

 

1.クモハ42001 (雀田:1994年7月)

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 もともと、宇部小野田線は旧国の巣窟でした。思えば私が広島に住んでいた1976年に可部線の17m車が淘汰された以降も、宇部小野田線には茶色の旧国が残りました。しかし、1981年には、1M車の105系が投入され、旧国が一掃されるかと思いましたが、幸い105系には両運車バージョンがなく、辛うじて本山支線用に両運車のクモハ42形が残されました。

 

2.クモハ42001 (浜河内~雀田:1994年7月)

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 私は元々旧国にはあまり興味がなく、可部線の17m車も「灯台下暗し」と言うか、地元にありながら1度も撮影せずに終わってしまいましたが、全国の吊掛車が減って行く中、弘南鉄道鶴見線クモハ12形に触発され、ようやく旧国に目覚めました。しかし、朝と夕方以降しか走らない小野田線のクモハ42形を撮影するには、広島から出向いても撮影効率が悪く、なかなか重い腰が上がらなかったわけですが、小野田線の近隣には、宇部炭鉱のトロッコや、防府には防石鉄道の車両が保存されていることを知り、それらとセットで撮影に向かいました。

 

3.クモハ42001 (長門本山~浜河内:1994年7月)

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 この頃の本山支線は、すでに土曜日以外は日中の運行はありませんでした。土曜日は昼過ぎに、通学用と思われる1往復が運行されており、この日はちょうど土曜日だったので、先ずは昼の列車に間に合うように雀田を目指しました。

 

4.クモハ42001 (雀田~浜河内:1994年7月)

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 山本支線は、雀田~長門本山間の僅か2.3kmの路線です。この沿線ですが、周りは田圃ばかりの農村地帯かと思っていましたが、写真の様に巨大なタンクが見えます。実は宇部港のコンビナートに隣接する地帯でした。

 

5.クモハ42001 (長門本山~浜河内:1994年7月)

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しかし、この路線の生い立ちは宇部炭鉱であり、炭鉱なき後はコンビナートの輸送にも関与していないことから、何のために存在しているのかよくわかりません。

 

6.クモハ42001 (浜河内~長門本山:1994年7月)

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 せっかく土曜日の日中に運行される通学列車もガラガラです。これがJRの路線ではなかったら、すでに消滅していたかも知れません。

 

7.クモハ42001 (長門本山~浜河内:1994年7月)

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 この頃の本山支線は1日11往復が朝夕に運行されていましたが、その時間帯であってもラッシュと言えるほど乗客はおらず、現在も車両こそクモハ123形に代りましたが、辛うじて1日3往復の運行が残っています。果たして鉄道路線として残る意味が分かりません。クモハ123形が走れなくなった時がこの路線の終わりなのか?

第862話 1994年宇品四者協定線:もうひとつの宇品線回想(その6)

今回は、いよいよクライマックスの旧宇品駅構内です。1994年当時は、見覚えのある建物など、辛うじて昔の面影が残っていました。

 

1.地図7.引用:国土地理院地形図1/25000「広島」昭和56年発行

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 地図を見ると、宇品駅の海側に側線が存在していたことがわかります。1979年に現役時代の宇品四者協定線を探訪した際には、この側線には興味がなかったのか実態を確認していません。

 

写真㉞

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 写真㉞は、旧宇品駅構内を宇品方向に撮影したものです。線路は撤去されて更地になっていましたが、駅のホームとレンガ造りの倉庫が残っていました。宇品四者協定線時代にはこの付近から左方向に分岐する側線(広島港臨港線)が存在しました。

 

写真㉟

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 写真㉟はホーム跡です。やけに長いホームですが、軍事目的で造られたもので、日本一長いホームとも言われたそうです。旅客輸送時代の宇品線は日本一の赤字路線にもなりましたが、日本一尽くしです。なお、この長いホームは旅客用ではなく貨物用で、旅客用ホームは、このずっと先の方にありましたが、すでに撤去されていました。

 これで、宇品四者協定線の廃線探訪は終わりですが、宇品四者協定線の廃止から8年となり、市街地は再開発によってほとんど線路の面影はなく、宇品周辺に辛うじて遺構を散見できる程度になっていました。その後、旧宇品駅構内は広島高速3号線の建設で跡形もなく変貌を遂げて現在に至ります。

さて、宇品線の車両ですが、旅客時代には気動車も走っていました。キハ04-100番台が充当されていました。それが国鉄最後のキハ04になったそうですが、実物の画像がありませんので、模型の画像をご紹介します。

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ちなみに、この模型は20数年前に珊瑚模型のキットを組んだものですが、エンジンなど床下機器が付いておらず、未完成のままお蔵入りとなっていたものです。

最後に、1979年に宇品四者協定線時代の宇品駅に常駐していたスイッチャーの写真を撮っていましたので、ついでにご紹介します。

 

写真㊱

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 写真㊱は、宇品駅の終端に近い場所で、かつて駅舎があった付近です。手前のホームが日本一長い?ホームです。このスイッチャーの後方の、ワムが止まっている貨物ホームの建物は、写真㉟にも写っていますが、そこが晩年の旅客ホームがあった場所でした。

 

写真㊲

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 写真㊲はスイッチャーを背面から撮った写真ですが、レンガの倉庫も写っています。先程の橋脚と言い、日本一?長いホームと言い、全て石積の重厚な造りです。それだけ重要な路線だったと言うことです。さて、このスイッチャーですが、No.2と称するニチユの平凡な15t機(注1)でした。当時の旧宇品駅は駅ではなく、広島駅の側線扱いの宇品貨物取扱所となっており、広島港臨港線を含むこの辺り一帯の貨車の操車は、日本通運広島海運支店所有の、このスイッチャーが行っていました。

(注1)旧宇品駅日通スイッチャーの車歴

・日通No.2:1968年日本輸送機製(製番1197001)

宇品四者協定線が廃止されたあと、このスイッチャーは、山陰本線益田の大和紡績(日通)に転出し、No.3となったそうです。

このスイッチャーの撮影から早や43年です。いまさらこんな廃線探訪に興味を持って頂ける人が果しているのか?最後までお付き合い頂いた方は、ありがとうございました。今回の話題は、報告と言うより、自分の記憶の整理になりました。

第861話 1994年宇品四者協定線:もうひとつの宇品線回想(その5)

ここから先は、東洋工業マツダ)の工場に囲まれた一帯を進みます。徐々に臨海工業地帯の雰囲気になってきました。

 

地図6.引用:国土地理院地形図1/25000「広島」昭和56年発行

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 地図を見ると、宇品四者協定線の両側はマツダの工場ですが、元々右側の一帯は海でした。海を埋め立ててマツダの工場ができました。マツダの工場は非常に大きく、地図の右側には延々と巨大な工場施設が続きます。しかし、宇品四者協定線はマツダの工場には入らず、宇品へ直行していました。

 

写真㉘

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 写真㉘は、マツダの専用陸橋下から宇品方向に線路跡を撮影したものです。空き地を利用して、土砂やら資材やらの置き場になっていました。

 

写真㉙

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 写真㉙は少し進んで、こんどは広島方向を写したものです。ここは宇品線時代に下丹那という駅があった場所の様ですが、この駅は戦中の1943年に休止されました。この辺りまで花が咲いていましたが、線路跡は空き地の様になってきました。写真の右側の樹木は、並行する道路(海岸通り)の街路樹です。

 

写真㉚

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 広島大学医学部病院辺りからほぼ直線だった線路跡は、写真㉚のボート免許センターなる建物の前で右にカーブします。写真㉚はカーブの始まる地点から宇品方向を撮影したものです。写真の右前方に写る大きな建物は、宇品港にあった農協の飼料工場です。もうすぐ終点の宇品ですが、この先は線路跡が草むらに埋もれており、更にその先は溜池で進めません。

 

写真㉛

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 写真㉛は、草むらを迂回して更に100m程進んだ場所ですが、溜池があり、石積の橋脚が現れました。かつてここには、この溜池を渡る宇品四者協定線の橋梁がありました。いつの時代のものか分かりませんが、かなり年季が入っています。ようやくまともな遺構を発見できました。

 

写真㉜

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 写真㉜は溜池の宇品側から広島方向の橋脚を撮影したものですが、前方の建物は、写真㉚に写っているボート免許センターの建物の反対側です。ところで、この溜池は、明治時代に宇品港の埋め立て時に埋め残された海に通じる水路の名残りですが、徐々に埋め立てられて、この時はほんの一画だけが、溜池の様に残されていました。しかし、現在は完全に埋め立てられて存在しません。

 

写真㉝

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 写真㉜の宇品側は整地されて駐車場になっていました。写真㉝はその駐車場を宇品側から撮影したもので、前方に聳える山は黄金山です。この駐車場の辺りから旧宇品駅の構内となります。かつては、この辺から海側に側線が分岐していましたが、すでに跡形もありませんでした。

第860話 1994年宇品四者協定線:もうひとつの宇品線回想(その4)

宇品四者協定線の廃線探訪は、下大河駅跡を過ぎると後半となります。しかし、下大河付近の線路跡は完全に道路化されており、宇品四者協定線の名残りは何もありません。よって、下大河付近は写真も撮っていませんでした。線路跡の道路は、次の丹那駅跡まで続いていました。

 

地図5.引用:国土地理院地形図1/25000「広島」昭和56年発行

 今回は、丹那駅跡付近から宇品にあるマツダの工場付近までの線路跡の様子です。

 

写真⑳

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 丹那駅跡も場所がはっきりしませんでした。しかし、線路跡の道路の脇に、踏切や線路をモニュメントにした公園がありました。写真⑳がそれですが、ここには駅跡を示す説明もなく知らない人が見たら、いったい何のモニュメントなのか意味不明です。果たしてここは駅跡なのか?

 

写真㉑

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 そして、写真㉑は写真⑳の場所から道路を挟んた反対側の公園ですが、ここにも線路の様なオブジェ?がありました。この場所は道路がS字にカーブしていますが、昔の地図と照らし合わせると、線路跡は直線だった様で、恐らくこのオブジェ?は線路跡を示すものかも知れませんし、丹那駅跡なのかも知れません。しかし、この場所は少し勾配になっているので、疑問は残ります。

 

写真㉒

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 そして、写真㉒の撮影位置から宇品側に少し進むとバス通りとの交差部があり、そこから再び線路跡が現れます。写真㉒は、その交差部から宇品方向に線路跡を撮影したものですが、どうやらこの交差点の向こう側の花が咲いている辺りが丹那駅跡ではないかと思います。この先の線路跡は元々両側に道路があったので、道路化されることもなく残っていました。

 

写真㉓

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 写真㉓は、写真㉒に写る線路跡の右側の道路から宇品方向を撮影したものですが、線路跡は古い枕木で仕切られており、いかにも線路跡です。ひと昔前は、古枕木をこのように柵に活用しているところをよく見掛けましたが、最近はほとんど見なくなってしまいました。

 

写真㉔

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 写真㉔は、丹那駅跡と思われる地点から線路跡の中を宇品方向に撮影したものですが、ご覧の通り花畑状態でした。恐らくは誰かが線路跡にこの花を植えたのでしょうが、ここまで大繁殖すると手に負えません。まあ、雑草が生い茂る空き地よりも、トロピカルな花が咲き乱れる花壇の方が癒されます。

 

写真㉕

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 写真㉕は写真㉔の線路跡を宇品方面に400m程進んだ位置から広島方向を撮影したものです。この辺りの線路跡は小高い築堤になっていましたが、その昔は、写真の右側は海でした。

 

写真㉖

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 写真㉖は、写真㉕の撮影位置から宇品方向を撮影したものです。前方の道路橋は、マツダの専用橋で、この橋の左右にマツダの工場があります。

 

写真㉗

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 写真㉗は写真㉖に写るマツダの専用橋の交差部分から広島方向を撮影したものです。ここまでは住宅街ですが、ここから宇品方向は工場地帯となります。廃線探訪も、いよいよ終盤です。

第859話 1994年宇品四者協定線:もうひとつの宇品線回想(その3)

今回は段原地区を抜けて、広島大学医学部付近と国道2号線を越えた皆実町付近の様子です。段原一帯は再開発で現在は街並みも変わってしまいましたが、広島大学医学部の辺りは、大学の施設こそ変わりましたが、線路跡は道路となり現在も見極めはつきます。

 

地図4.引用:国土地理院地形図1/25000「広島」昭和56年発行

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 今回の探索エリアは、かつて大河(おおこ)と呼ばれた一帯です。沿線には古くは陸軍関係の施設や、戦後は一時期官庁が置かれ、その後は広島大学医学部など学校が多い地域です。

 

写真⑬

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 写真⑬は、旧南段原駅付近から宇品方向を撮影したものです。この付近までが、その後に再開発された一帯です。

 

写真⑭

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 写真⑭は写真⑬の撮影位置から宇品方向に200m程進んだ位置で広島方向を撮影したものです。この辺りから線路跡は道路に活用されて現在も存在しています。

 

写真⑮

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 写真⑮は写真⑭の撮影位置から宇品方向に200m程進んだ位置で宇品方向を撮影したものです。左側が広島大学医学部病院で、ここはその入口でかつて踏切だった場所です。そして、ここは上大河駅跡です。私の記憶では、小学校の4年生の頃(1973年)、ここにはまだホームの後が残っていたような気がします。宇品四者協定線になる以前、この路線は貨物側線でしたが、非公式に上大河まで通勤・通学列車が運行されていました。旅客営業は1972年に廃止されていましたが、この付近は学校があるため特別な処置だったようです。その頃の列車は気動車ではなく、DE10が牽引する客車列車だったそうですが、上大河駅は単線の中間駅だったので、全ての列車が客車の前後に機関車を付けたプッシュ・プル?編成だったそうです。

 

写真⑯

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 写真⑮の撮影位置から、更に200m程宇品方面に進むと、かつて宇品四者協定線が国道2号線と平面交差していた場所に出ます。写真⑯はその交差部を国道2号線を挟んで、宇品側から広島方向を撮影したものです。写真の前方に写る白いワンボックスの右側が線路跡です。ここにはかつては踏切が存在しましたが、すでに痕跡すらありません。

 

 写真⑰

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 写真⑰は写真⑯の撮影位置で振り向いて宇品方面を撮影したものです。この写真では、ここから宇品方面はすでに線路跡が道路化されていることがわかります。この状況だと、国道2号線との元踏切部は、まもなくこの道路の交差点が出来る雰囲気でした。

 

写真⑱

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 写真⑱は写真⑰の撮影位置から200m程宇品方向に進んだ位置で、広島方向を撮影したものです。ここで不可解なのが、この3車線の道路です。道路のど真ん中に縁石とガードレールが存在し、明らかに左側の2車線の方が新しい道路ですが、線路跡が、右側の道路なのか、それとも新しい道路に含まれたのか、はっきりしません。

 

写真⑲

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 写真⑲は写真⑱の撮影位置付近から宇品方向を撮影したものです。この3車線の道路は、この先で左の1車線が2車線に合流します。昭和59年頃の地図を見ると、その頃は左の1車線は存在しなく、右の2車線部分は細い1車線?の道がこの辺(右:県立広島工業高校)までしか記載がなく、この先は200m程道路がなかったことになります。よって、線路跡はこの2車線の中央側に含まれている様です。そして、この先200m程の地点が下大河駅跡ですが、このまま道路化されて跡形もありません。