ローカル線の回顧録

1970年代後半から2000年頃までのローカル線の記録

第1195話 1996年近江:どうした西武の大型車?

近江鉄道と言えば、「車歴の呪縛」です。その複雑怪奇な車歴に悩まされ、気が付けば車庫以外でのまともな撮影を行ったことがありませんでした。よって、今回は彦根の車庫をパスし、元西武401系に置換えが迫る?近江オリジナル電車の、初めての沿線撮影の様子をお伝えします。

 

1.彦根構内全景 (彦根:1996年11月)

まずは構内を遠目に眺めて、山の向こうへ行きます。近江鉄道はこの山をトンネルで抜けて米原へ向かいます。

 

2.モハ222 (鳥居本:1996年11月)

とりあえず一駅だけ電車に乗って、ここは山向こうの鳥居本です。鳥居本は周辺に何もないようですが、側線を有する駅でした。すでに無人化されていましたが、かつては貨物の発着があったそうです。

この頃の近江鉄道は、閑散時間帯を主体に、小型のモハ220形が活躍していました。この電車は近江鉄道お手製と言うか、西武電車を切り継いで組み立てた、車両長わずか16mの電車です。失敗だったレールバスの代替で導入されたものです。

 

3.モハ222 (彦根鳥居本:1996年11月)

鳥居本から歩いて彦根方面に戻ります。ここは東海道新幹線と交差した少し先ですが、山に向かって結構勾配がきつく、33.3‰あります。いつも新幹線の車窓から見える場所で気になっていました、先ほど乗ったモハ222が戻ってきました。でも、この電車は、どうも近江鉄道のイメージではありません。

 

4.モハ505+クハ1505 (彦根鳥居本:1996年11月)

そして、次の列車は500系でした。この頃の近江鉄道のイメージは、やはり黄色い電車です。ところで、この電車は言わずもがなの壮絶な車歴を有する電車ですが、見た目はどうしようもないフツーの電車です。近江鉄道の電車は、多くが車歴ばかり古い電車ですが、実態はこのように面白くないフツーの電車なので、どうも撮影に気合が入りません。

 

5.モハ505+クハ1505 (彦根鳥居本:1996年11月)

この辺りは民家がなく、寂しいところです。近江鉄道米原彦根間は東海道本線と競合区間ですがこの駅間は人口希薄な一帯で、近江鉄道だけを見ると利用客はほとんどいない様です。かつては、鳥居本まで貨物が運行されていましたが、貨物輸送を廃止してからは、とても採算が取れているとは思えませんでした。

 

6.モハ506+クハ1506 (彦根鳥居本:1996年11月)

もう少し彦根方面に進むとこの駅間のサミットである延長340mの佐和山トンネルです。この場所はトンネルの彦根側です。そもそも米原彦根間の存在が不思議ですが、昔はこんなトンネルを造るほど重要な路線だったようです。

第1194話 1995年南海(汐見橋):やっと新性能化完了(その2)

南海電鉄1521系は、この年の7月に大半が廃車され、そのすべてが弘南鉄道に譲渡されました。正直、弘南鉄道はこの車両を購入してどうするつもりなのか不可解でしたが、結局、使いこなせなかったのか、再び元東急7000系のみの所帯に戻ってしまいました。

 

1.クハ3903+モハ1528 (岸里玉出:1995年8月)

弘南には行かず最後まで残った1521系は下記の通りですが、クハ3907+モハ1531とモハ1526以外の3本は汐見橋線に配属されて最後を迎えました。

<晩年に残った1521系>

・クハ3901+モハ1521  ・クハ3903+モハ1528

・クハ3905+モハ1529  ・クハ3907+モハ1531  ・モハ1526

※モハ1526、モハ1528は両運車

 

2.クハ3905+モハ1529 (岸里玉出:1995年8月)

汐見橋線の新性能化は、この撮影の数日後の8月24日でした。この1521系が汐見橋線に配属となる1985年以前は6000系の2連が運用されていたので、正確には新性能復帰と言うことですが、南海電鉄としてはまさに新性能化達成でした。

 

3.モハ22004+モハ22003 (木津川:1995年9月)

そして、新性能化後の汐見橋線を覗きに行きました。山を下りた貫通ズームカーがうれしいアオ虫塗装で活躍していました。

 

4.モハ22003+モハ22004 (木津川:1995年9月)

22000系は17m2扉車です。大都会のローカル線には、この程度の車両がちょうど良さそうです。しかしながら、この電車も1521系と似たような老け顔をしています。血筋は争えません。

 

5.モハ22004+モハ22003 (岸里玉出:1995年9月)

22000系はMM編成です。しかも由緒あるズームカーです。汐見橋線にはもったいない肩書の車両ですが、これは暫定配置でした。この頃、22000系は支線様に加速を下げ、弱め界磁機能を外すなどの2200系化を進めていました。

 

6.モハ2282+モハ2232 (岸里玉出:1995年9月)

当然ですが、汐見橋線にも2200系は充当されていました。これがその後の汐見橋線の顔になりました。

さて、1521系の淘汰で南海電鉄は、やっと新性能化完了となりましたが、その後の汐見橋線はどうかと言えば、鳴かず飛ばずのローカル線です。なにやら、新たな関空アクセスの計画で、汐見橋線を活用して南海電車の梅田進出の噂もありましたが、いかがなものか?。まさか、和歌山港線のごとく、線内全駅通過の特急しか走らない路線にならないことを祈るばかりです。

第1193話 1995年南海(汐見橋):やっと新性能化完了

南海電鉄は1995年4月に貴志川線の新性能化を行いましたが、本線にはまだ新しい?吊掛車が残っていました。それは通称汐見橋線という、大阪のど真ん中を走るローカル線にいた1521系でした。しかし、その1521系もついに、1995年7月に終焉を迎えることになりました。これでやっと南海電鉄も新性能化が完了します。

 

1.クハ3903+モハ1528 (木津川:1995年8月)

1521系については、第1050話~第1052話で晩年の様子をお伝えしていますが、今回は、いよいよ引退直前の状況をお伝えします。

 

2.クハ3905+モハ1529 (木津川:1995年8月)

まず、運用列車の確認に訪れたのは木津川でした。撮影ポイントが少ない汐見橋線において、この駅は構内が広く、比較的列車の撮影がしやすかったからです。

 

3.クハ3905+モハ1529 (木津川:1995年8月)

この日は、クハ3903+モハ1528とクハ3905+モハ1529の2本が運用されていました。ちなみにモハ1528は両運車です。ところで、1521系はいつ見ても垢ぬけない老けた表情をしています。ラピートが登場しましたが、私の南海電車のイメージはいまだに1521系の老けた顔です。

 

4.クハ3903+モハ1528 (岸里玉出:1995年8月)

ここは岸里玉出です。すでに高架工事が完了しており、汐見橋線も再び本線とつながり、1521系は新しいホームに停車していました。しかし、この高架駅は1521系には全く似合いません。

 

6.クハ3903+モハ1528 (岸里玉出:1995年8月)

汐見橋線は、もともと高野線だったので、高架ができる前は高野線と線路がつながっていましたが、ご覧の通り、高架完成後は南海本線から分岐する配線となりました。しかし、複線の汐見橋ですが高架上は単線1面のホームとなりました。

 

7.クハ3905+モハ1529 (岸里玉出:1995年8月)

汐見橋線岸里玉出駅のホームは新しくなりましたが、電車もまもなく交代です。すでに後継車は、山を下りた貫通ズームカーの22000系であることはわかっていましたが、これで南海から非冷房の吊掛車がなくなります。

号外2024.06.08:浜安善を歩く(その3)

安善駅から浜安善ヤードまで1㎞程の道程ですが、その延長上にあった石油会社の引込線はすでに跡形もありませんでした。かつて、浜安善は大手石油会社の石油備蓄タンクがひしめき合う一帯でしたが、ある時期に浜安善から石油会社はほとんど撤退したようで、それと共に各社につながっていた引込線もなくなりました。現在は浜安善に残る米海軍の石油油槽所の引込線しか存在しません。

 

1.浜安善支線の撮影ポイント

上図は、安善橋から先の撮影ポイントを示したもので、〇番号は以下の写真番号を示します。今回は㉔~㉟までをお伝えします。

 

㉔ 油槽所引込線ゲートから安善橋方向を臨む(安善二丁目:2024年4月)

写真㉔は、唯一残っていた油槽所の引込線が、浜安善ヤードから道路を横断して油槽所へ引き込まれている場所です。道路左側は油槽所のゲートです。道路右側の電柱脇に市バスの終点である安善町バス停が、ちょっとだけ写っています。

 

㉕ 浜安善支線の終端部から安善橋方向を臨む(安善二丁目:2024年4月)

さて、浜安善支線のヤードは、かつて浜安善貨物駅でした。現在はもう駅ではなく、単なる引込線の終点です。かつては、このヤードから近隣の石油会社へ引込線が何本か存在していました。そして、写真㉕は、ヤードの南端である浜安善支線の終端部です。写真の右端にコンクリート製の車止めが写っています。

 

㉖ 浜安善支線の終端部車止め(安善二丁目:2024年4月)

写真㉖は写真㉕を少し引いて撮影したものですが、写っている強烈なコンクリートブロックが浜安善支線終端の車止めです。かつては、この車止めはなく、線路はこの先へ延びていましたが、現在は建物が建っています。ちなみに、この車止めの右側の空き地には、浜安善駅の駅舎が建っていましたが現在はありません。手前の道路の右側は企業のゲートですが、ここで市バスが転向します。

 

㉗ 横浜市バスと安善町降車バス停(安善二丁目:2024年4月)

写真㉗は、市バスが終点のバス停にちょうど到着したところです。線路もバスもここまでですが、まだこの先へ彷徨は続きます。

 

㉘ 油槽所沿道から安善橋方向を臨む(安善二丁目:2024年4月)

陽の向きの都合で、安善橋方向を撮影した写真ばかりですが、実際は反対方向へ歩きました。写真㉘の左側は油槽所です。立入禁止ですが、幸い沿道のフェンス越しに中の様子が確認できます。この先は油槽所のフェンスに沿って歩きます。このフェンスの向こう側には、引込線が見えます。

 

㉙ 沿道から油槽所を臨む(安善二丁目:2024年4月)

フェンスの向こう側は広大な油槽所です。星条旗がたなびいていますが、フェンスの向こうは治外法権なのか?しかし、ここは元々日本石油の製油所だったそうです。

 

㉚ 沿道から油槽所を臨む(安善二丁目:2024年4月)

沿道から油槽所の石油積込み施設に入線したタンク車が見えました。引込線のレールは錆びていましたが、現在もタンク車の出入りは続いている様です。しかし、この日は走らないようです。ところで、ここにはスイッチャーがいません。よって、JR貨物の機関車が油槽所構内まで乗り入れているようです。

 

㉛ 沿道から油槽所を臨む(安善二丁目:2024年4月)

フェンスの網目からスマホで撮ると、フェンスを気にせずに、こんな写真が撮れました。手前の草むらにも線路が敷かれています。まさに緑化軌道ですが、これは廃線の様です。

 

㉜ 沿道から油槽所を臨む(安善二丁目:2024年4月)

そして、ワム8のダルマも・・・。フェンスをクローズアップすると、とても臨場感が伝わります。かつて、この場所ではこんな写真など撮れませんでしたが、時代が変わったと言うことなのか?

 

㉝ 沿道終端から安善橋方向を臨む(安善二丁目:2024年4月)

油槽所のフェンスに沿って、道路の終端まで歩きました。写真㉝は道路の終端から歩いてきた道路を撮影したものですが、右側の工場は化学関係の会社の様で、多くのタンクローリーが入場の順番待ちをしていました。この工場ができる前は、日本ガテックスの引込線が、浜安善ヤードからこのあたりまで延びていたはずですが、すでに痕跡すらありません。この工場のゲート前で交通整理をする警備のオジサンが寄ってきて、最近はこの場所に写真を撮りに来る人が結構いるとのことで、工場の中の写真は撮影禁止と言われましたが、そっちは全く興味がありません。

 

㉞ 沿道終端から油槽所を臨む(安善二丁目:2024年4月)

写真㉞は、終端部の油槽所の様子です。写真の右側には、廃線となった線路の車止めが写っています。この写真の左側は京浜運河です。

 

㉟ 沿道終端から京浜運河を臨む(安善二丁目:2024年4月)

道路の終端から京浜運河を撮影しましたが、ご覧の通り、頑丈なバリケードが・・・。運河の向こうは扇島です。最近は、どこの港湾地区も岸壁へ立入ることができません。安全と防犯の理由なのでしょが、波止場の情緒など全くありません。

さて、ざっくりと2024年4月時点の浜安善支線の様子をお伝えしましたが、いまだに、この様な貨物路線が健在であることを確認できました。こんどは、「米タン」が走る日に再訪問したいと思います。

おわり。

号外2024.06.06:浜安善を歩く(その2)

浜安善支線探訪の続きです。今回は安善橋を渡って安善二丁目に踏み込みますが、ここから先は、私にとって未踏地帯でした。

 

1.浜安善支線の撮影ポイント

上図は、安善橋から先の撮影ポイントを示したもので、〇番号は以下の写真番号を示します。今回は⑬~㉓までをお伝えします。

 

⑬ 浜安善支線の安善橋(安善二丁目:2024年4月)

写真⑬は安善橋を浜安善寄りから撮影したものです。かつてクモハ12形撮影では、この安善橋に大変お世話になりました。しかし、この橋を渡る列車を見たことがありません。

 

⑭ 浜安善ヤード北端部(安善二丁目:2024年4月)

安善橋を渡ると、かつての浜安善のヤードです。写真⑭は浜安善ヤード北端の分岐部から、安善橋の方向を撮影したものです。

 

⑮ 浜安善ヤードの踏切(安善二丁目:2024年4月)

写真⑮は少し浜安善側に進んだところの踏切です。この踏切はまだ新しい様ですが、踏切の右に写る会社も最近できたのか?そう言えば、1990年代のこの辺りは、一面石油会社の備蓄タンクだらけだったはずです。現在は石油会社が移転して新しい企業が進出してきた様です。ちなみに、かつてこの場所にはエッソ石油があり、このヤードから引込線が延びていたそうです。

 

⑯ 浜安善ヤード(安善二丁目:2024年4月)

写真⑯は、写真⑮の撮影場所で振り向いて浜安善方向を撮影したものです。これが現在の浜安善のヤードです。かつては、もっと多くの線路が敷かれていたのでしょうが、現在はこれだけです。2本ある線路の左側は、このヤードの機回し線の様です。写真の右側には米海軍油槽所の石油タンクが見えますが、その手前は、かつてモービル石油があった場所で、このヤードから道路を横断して引込線が存在しました。

 

⑰ 浜安善ヤード(安善二丁目:2024年4月)

写真⑰は浜安善ヤードの南側から安善橋方向を撮影したものです。真ん中の寸断された線路はタンク車の留置線だったのでしょうか?このヤードの右側の空き地は、かつて右側にあったシェル石油の引込線が分岐していた場所の様です。そして、この写真の左側に写る分岐は、米海軍油槽所(エリア2)へ延びる引込線です。

 

⑱ 浜安善支線終端と油槽所引込線を臨む(安善二丁目:2024年4月)

写真⑱は、写真⑰の撮影場所から振り向いて、ヤードの終端方向を撮影したものです。左の線路の先には終端の車止めが見えます。右側の線路は道路を斜めに横切って米海軍油槽所(エリア2)へ延びる引込線です。

 

⑲ 浜安善ヤードの油槽所引込線分岐部(安善二丁目:2024年4月)

写真⑲は油槽所の引込線分岐部を道路から安善橋方向に撮影したものです。道路の左側が米海軍油槽所(エリア2)ですが、フェンスの先に写る建物に注目です。

 

⑳ 安善町バス停の待合所(安善二丁目:2024年4月)

写真⑳は、その建物のアップ撮影ですが、ここは安善町バス停です。ここから鶴見駅まで横浜市交の路線バスが運行されています。米海軍のご厚意なのか、バスの待合所が油槽所の敷地に食い込んでいますが、待合所の後ろの建物は米海軍の施設です。

 

㉑ 安善町バス停の時刻表(安善二丁目:2024年4月)

写真㉓は、気になるバスの時刻表ですが、なんと、こんな僻地(失礼!)なのに、結構な本数のバスが運行されています。休日でもちゃんと1時間に1本走っていますが、利用する人はいるのか?

 

㉒ 油槽所引込線ゲートから浜安善ヤードを臨む(安善二丁目:2024年4月)

再び引込線に戻って、写真㉒はちょうど写真⑱と対向する位置から撮影しています。この道路を横断するタンク列車を見てみたいものです。よく見るとレールの踏面は錆びており、しばらく列車の運行はないのか?。

 

㉓ 油槽所引込線道路交差部の注意標識(安善二丁目:2024年4月)

そして、この道路横断部は一応踏切です。道路を斜めに横断するので遮断機はありませんが、お茶濁し程度の踏切標識が1本立っています。実際に列車がここを通るときは、遮断機の代わりにロープを張って保安要員が道路に立ち、通行車両の誘導を行うそうです。

つづく。

号外2024.06.04:浜安善を歩く

今年の3月にJR鶴見線の新車131系を見に行った際、久々に鶴見線を大川まで乗車しました。その時の様子は、号外2024.04.06~でお伝えしましたが、正直、新車のことなどどうでもよかったわけでして、鶴見線沿線の専用線がどうなっているのか大変気になり、GWのちょっと前に再び鶴見線を訪問しました。この時は、海芝浦と扇町へ出向きましたが、そのあと、浜安善へ向かいました。・・・と、いうことで、今回はまた号外です。

 

1.浜安善支線沿線の地図 (引用:国土地理院1/2500地形図 GSI Maps)

上図は、鶴見線安善から分岐する貨物線(旧浜安善支線)が表示された現在の地形図です。今回は現在の浜安善支線(便宜的に浜安善支線と呼ぶことにします)の実態を確認するため、安善駅から浜安善に向けて歩きました。

浜安善支線の開業は、1926年の鶴見臨港鉄道開業の頃まで遡ります。路線長は、わずかに1.1㎞程で、かつて旅客営業を行っていた時期もある鶴見線の支線でしたが、国鉄の貨物合理化のあおりで、支線から安善駅構内の側線に格下げされており、現在は沿線の企業へ分岐していた専用線もなくなり、米海軍の貯油所に出入りする石油輸送のタンク列車だけが細々と運用されています。この路線の開業当初は石油支線と呼ばれていたそうで、終点の「浜安善駅」は「石油駅」と称していました。それだけ石油輸送に重点が置かれた路線だったそうです。このあたりの経緯は、渡辺一策さんが執筆されたRM LIBRARY 124「鶴見線貨物回顧」にまとめられており、私も参考にさせて頂きました。

 

2.浜安善支線の撮影ポイント

上図は、今回の撮影ポイントを示したもので、〇番号は以下の写真番号を示します。

 

① 安善駅の131系 (安善:2024年4月)

まずは安善駅の様子です。まだラッシュ時だったので、鶴見線は列車本数が多く、安善駅では上下列車の並びが撮影できましたが、この電車では感動の欠片もありません。

 

② 安善駅構内のタンク車ヤード (安善:2024年4月)

そして、振り向くとタンク車が留置されていました。この時間はモロに逆光です。このヤードの向こうはフェンス越しに米海軍貯油所の設備が見えます。留置中のタンク車は、その貯油所に出入りする、いわゆる「米タン」です。運が良ければ、このタンク車が浜安善支線を走るかもしれません。

 

③ 安善駅構内を横断する道路の踏切 (安善:2024年4月)

安善駅を出て鶴見線と貨物ヤードを横断する踏切を渡りました。ここから先は1991年以来33年ぶりです。1991年当時は、大川支線の運河を渡るクモハ12形を望遠撮影するために、安善橋まで歩きました。その時の様子は第808話をご覧ください。

さて、1991年当時はクモハ12形を追い掛けることに注力していたため、浜安善支線の写真が1枚もありませんが、その頃、この一帯は撮影禁止エリアだった様な気がします。特に、米海軍の施設などむやみに撮影したら捕まってしまいそうだったので、写真がないのかも・・・。

しかし、現在は撮影禁止の表示は見当たらず、せいぜい立入禁止の看板程度です。これをどう解釈すべきか?。もっともネットではグー〇〇アースやスト〇ー〇ビューなど、秘密基地も丸裸状態です。今さら隠すモノがあるのか?。よって、今回は個人的な判断ではありますが、一般常識と思われる範囲で撮影を行いました。

 

④ 浜安善支線のカーブから安善駅ヤード方向を臨む(安善一丁目:2024年4月)

さて、浜安善までの撮影ですが、コンプライアンス遵守の世の中なので、線路を歩くわけにはいきません。幸い浜安善支線に沿って歩道付きの立派な道路が並行しており、線路を歩くことなく終点まで踏破できました。この写真④は安善駅のヤードから浜安善支線が南方へ90度カーブして道路沿いに出てくる場所からヤード方向を撮影したものです。写真の右側のフェンスの向こうは米海軍の貯油所(エリア1)です。

 

⑤ 貯油所引込線分岐部(安善一丁目:2024年4月)

写真⑤は写真④から200m程先の米海軍貯油所(エリア1)に入る引込線の分岐です。ここでタンク列車はスイッチバックして貯油所に入構します。貯油所には2本の引込線があり、その先には石油の積込設備が見えます。遠くに緑色のタンク車が見えますが、これは貯油所内ではなく、安善駅のヤードに留置されているタンク車です。

 

⑥ 浜安善支線と貯油所引上線(安善一丁目:2024年4月)

写真⑥は線路が複線になっていますが、右側の線路は貯油所内のタンク車入換用の引上線と思われます。なぜ、フェンスの外に出ているのか?

 

⑦ 貯油所正門前の踏切(安善一丁目:2024年4月)

写真⑦は踏切ですが、この右側は貯油所の正門の様です。守衛所もあり、さすがに正門の撮影は遠慮しました。

 

⑧ 貯油所横の浜安善支線(安善一丁目:2024年4月)

写真⑧は、もう一つ先の踏切から安善駅方向を望遠撮影したものです。貯油所へ分岐する2本の引込線と引上線の様子がわかります。

 

⑨ 貯油所横の浜安善支線(安善一丁目:2024年4月)

写真⑨は写真⑧と同じ場所から標準撮影したものです。右側の貯油所はここまでですが、浜安善支線はこの先にある、もう一つの米海軍油槽所(エリア2)へ続きます。

 

⑩ 浜安善支線の終点を臨む(安善一丁目:2024年4月)

写真⑩は、写真⑨の撮影場所から振り向いて浜安善方向を望遠撮影したものです。この向きは逆光ですが、この写真の先に写る、線路両側の青い構造物は安善橋のガーダーです。

 

⑪ 安善橋から安善駅方向を臨む(安善橋:2024年4月)

写真⑪は、安善橋の橋上から安善駅方向を撮影したものです。左側の道路には結構歩いている人がいました。もう通勤時間帯を過ぎていましたが、この沿道にある企業に勤めるパートさんの様です。この道路には横浜市交の路線バスが走っていますが、安善駅から歩く人が結構います。

 

⑫ 安善橋から大川橋を臨む(安善橋:2024年4月)

写真⑫は、安善橋の上から運河の東方向を撮影したものです。午前中なので逆光ですが、前方には大川支線の大川橋が写っています。1991年頃、ここから大川支線のクモハ12形を撮影しました。もう33年も前のことです。

つづく。

第1192話 1994年越後交通(長岡):これが最後の訪問(その3)

越後交通長岡線の廃止は、1995年4月1日でした。あと半年後でしたが、今回が最後の訪問となりました。

 

1.ED311+タキ・・・ (西長岡:1994年10月)

ED311が牽引する空タキの貨物列車を見送りました。次はED311の単機回送が戻ってきます。もう雨が降りそうな天気になってきましたが、単機回送を見届けるまでは帰れません。

 

2.ED311 (西長岡:1994年10月)

ED311の単機回送は、すぐに戻ってきました。セメント輸送とは言え、なぜ、この路線がこの当時まで存続していたのか?すでに、復活を夢見ていたとは思えません。でも、結局は廃止の運命でした。

 

3.ED311 (西長岡:1994年10月)

ポツンと走るED311が、なかなかシュールな光景です。広い田園地帯には民家が見えません。後方の北陸自動車道の築堤がいつの時代なのか、唯一判別できる風景です。

 

4.ED311 (西長岡:1994年10月)

長岡線を初めて撮影したのは1987年5月でした。その時の様子は、第76話~第78話をご覧ください。最初はその存在こそ疑わしい謎の貨物鉄道でしたが、それから7年が経ち、いよいよ最後が見えました。かつては総延長が40㎞近くもある長大なローカル線でしたが、1975年の路線短縮後は貨物専用線となりそれから20年後の1995年に、ひっそり消えて行きました。

 

5.ED311 (西長岡:1994年10月)

廃止までに、もう1回くらい撮影に出向きたかったのですが、この半年は仕事の都合で全く身動きが取れず、気が付いた時にはもう、長岡線はなくなっていました。

 

6.ED311 (西長岡:1994年10月)

一部の機関車は、地元の長岡技科大に保存されたと聞いて安心しました。でも、結局は維持しきれずに全部解体処分されたとか・・・。国立大学ですら、鉄道車両の保存は難しいということを知らされました。大変残念なことです。