ローカル線の回顧録

1970年代後半から2000年頃までのローカル線の記録

第965話 1995年名鉄(美濃町):岐阜の細道

古い電車を追い掛けて名鉄の揖斐・谷汲線には毎年の様に出かけていましたが、古い電車がいないお隣の美濃町線には一度も出向いていませんでした。古い電車がいないと、出向くきっかけがないわけですが、たまには違った場所にも行ってみようと、揖斐線の撮影ついでに美濃方面に向かいました。以前、第660話では美濃町線電車の岐阜市区間の話題を少々お伝えしましたが、今回は競輪場前から先の併用軌道区間とその先の野一色、上芥見周辺での沿線撮影の様子です。

 

1.モ870形2連接 (北一色~野一色:1995年11月)

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まずは北一色付近の併用軌道区間ですが、元札幌市電だったモ870形がやって来ました。この列車は徹明町行ですが、この区間新岐阜行の列車が続行運転されていました。

 

2.モ606形 (北一色~野一色:1995年11月)

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そして、続行列車の新岐阜行は馬面のモ600形(注1)でした。

この写真ではノンビリ走っている様ですが、この道路は岐阜市街地に通じる幹線道路なのに、道路の真ん中に線路があるため、実質対面通行です。よって、朝夕は当然のごとく渋滞となり、電車も被害を受けます。電車は定時運行を確保するため続行運転となる約半数の列車は、この道路から離れて各務原線新岐阜に乗り入れるルートを走っていました。

 

3.モ605 (北一色~野一色:1995年11月)

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岐阜市内線の併用軌道は、北一色~野一色間で専用軌道となり、いきなり田舎電車となりました。

(注1)モ600形の車歴

名鉄モ601~モ606:1970年日本車輌

 

4.モ601 (北一色~野一色:1995年11月)

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この区間はまだ市内線区間です。日中の続行運転は市内線区間の終端である日野橋まででした。

 

5.モ870形2連接 (北一色~野一色:1995年11月)

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前の写真の新関行のモ600形に続いて、続行の日野橋行であるモ870形(注2)が追い掛けて行きました。

(注2)モ870形の車歴

名鉄モ873+モ874,モ875+モ876←札幌市交A839+A840,A841+A842:1965年東急車輛

モ870形は、元札幌市交通局A830形連接車で、1976年に3編成購入されましたが、酷寒の北海道から酷暑の岐阜へ移動して来たので入線後に側窓の開閉化など追加改造が施されて、優雅なヨーロピアンスタイルがだいなしです。1988年に1編成が廃車となり、その後は2編成が路線廃止まで残りました。そして、この当時はまだ冷房化も複電圧化もされておらず、新岐阜には乗り入れできませんでした。

 

6.モ880形2連接 (北一色~野一色:1995年11月)

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美濃町線のエースであるモ880形(注3)です。この電車は当初非冷房でしたが、1991年~1993年に冷房化されて、この時点では美濃町線系統唯一の冷房車でした。しかし、電源装置の都合で冷房は600V区間しか使用できず、各務原線区間では、お茶濁しの後付けラインデリアがフル稼働していました。

(注3)モ880形の車歴

名鉄モ880+モ881~モ888+モ889:1980年日本車輌

第964話 1992年関西電力(黒薙):秘境探訪(その2)

黒部峡谷に人知れず存在する黒薙支線ですが、歴史は古く、開業は大正15年10月23日で、黒部峡谷では一番最初に開業した路線の一部です。開業の目的は終点の二見にある黒薙第二発電所の建設だった様ですが、その後も発電所の資材運搬用に残されて現在に至ります。路線長は黒薙~二見間1.7kmですが、黒部峡谷において非電化路線であることが大変興味深いです。

 

1.黒薙支線 (黒薙~二見:1992年10月)

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この時、この沿線は正に紅葉のベストシーズンでした。雨さえ降っていなければ、この上ない絶景だったと思いますが、残念ながらこの写真では、実際の状況をお伝えすることができません。

 

2.黒薙支線 (二見~黒薙:1992年10月)

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雨の中を黙々と歩きましたが、この路線はいわゆる盲腸線で、距離が短いので立山砂防のように帰りを気にすることもありませんでした。

 

3.黒薙支線 (二見~黒薙:1992年10月)

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黒薙から30分程歩いて、第4トンネルを抜けると少し開けた交換所が現れました。ここは駅なのか?駅標も何もなく、車両もなく、線路は更に先へ延びていました。このすぐ先に見えるのは第5トンネルです。このトンネル内で線路は2方向に分岐していました。

 

4.黒薙支線二見構内 (二見:1992年10月)

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トンネルは短く、分岐の右方向へ進むとトンネルを抜けて、線路はその先でカーブして終端になっていました。その先は道路になっており、工事車両が何台か見られました。ここが終点の二見なのか?

 

5.黒薙支線二見構内 (二見:1992年10月)

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一方、トンネル内の分岐を左方向に進むと、こちらも線路は唐突に途切れていました。この辺りには建物が密集していましたが、ここが黒薙第二発電所の様です。現在では発電所も新しくなったそうです。結局、どこが終点の二見なのか分かりませんでしたが、この一帯が二見の様でした。何らかのサプライズを求めて歩いてきましたが、何も変わったものはありませんでした。専用線とはこんなものです。

 

6.黒薙温泉の玄関 (黒薙温泉:2014年8月)

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さて、話題は変わりますが、この写真は2014年に宿泊した時の黒薙温泉です。この時はもう軌道を歩くことは禁止されており、黒薙駅から山道を往復しましたが、それほど遠くでもなく、山道も遊歩道化されており、全く苦にはなりませんでした。

 

7.山腹に見える黒薙支線 (黒薙温泉:2014年8月)

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ここには河原の露天風呂があり、大自然を満喫できました。その露天風呂の更に奥の山腹には黒薙支線の線路が望まれました。この時は黒薙支線の探訪は行わず、おとなしく温泉に浸って帰りました。

黒薙支線は、現在も現役路線として存続していますが、線路内の立ち入りは禁止されていますので、ご理解願います。

第963話 1992年関西電力(黒薙):秘境探訪

1992年10月に北陸地方のローカル線早回りを行いましたが、その際に富山で雨に降られてしまい、時間つぶしに黒部峡谷へ出向きました。その状況は第664話~第668話でお伝えしましたが、その際に初めて黒部峡谷鉄道に乗車し、中間駅の黒薙(くろなぎ)で下車しました。黒薙という所がどんな場所なのかも知らず、すぐに引き返す予定でしたが、偶然、黒薙から分岐する関西電力の黒薙支線に遭遇し、時間もあったので急遽、黒薙支線の探訪を行いました。今回は、その探訪の様子をお伝えします。

 

1.DD23牽引の黒薙支線の貨物列車 (宇奈月:1992年10月)

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黒薙支線は、旅客輸送を行わない貨物専用の非電化路線なので、黒部峡谷鉄道ではありません。しかし、その路線に運行される貨物列車は、黒部峡谷鉄道のDD20形が牽引して宇奈月まで直通していました。貨物列車は定期運用なのか、不定期運用なのか不明でしたが、これも偶然、宇奈月で黒薙支線からやって来たと思われる、DD23牽引の貨物列車に遭遇しました。

 

2.黒薙支線周辺図 (引用:国土地理院1/50000地形図「黒部」昭和54年発行)

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黒薙支線は、上図に示したように黒薙温泉の近くを通るため、列車には乗車できませんが、その軌道は黒薙駅から黒薙温泉への短絡通路として利用されていました。よって、その短絡通路から奥地を目指しました。なお、現在は歩行禁止になっています。

 

3.黒薙支線分岐部 (黒薙:1992年10月)

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黒薙支線の分岐は黒薙駅の構内にあり、本線からすぐに素掘りのトンネルに入ります。このトンネルの途中に黒薙温泉へ下る坑口がありますが、現在は閉鎖されており、このトンネルから黒薙温泉へ向かうことはできません。

 

4.黒薙支線 (黒薙~二見:1992年10月)

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さて、この素掘りトンネルを抜けて先に進むと黒薙川の渓谷に沿って軌道は敷設されていました。ちょうどこの付近の谷底辺りが黒薙温泉です。前方には第2トンネルが見えます。

 

5.黒薙支線 (二見~黒薙:1992年10月)

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この路線は、奥地にある黒薙第二発電所の資材運搬用に残されていましたが、冬季は積雪で列車の運行ができないため、全線にわたって、冬季の歩道トンネルが軌道脇に敷設されています。この写真の軌道の右側にコンクリートの内側が歩道トンネルです。

 

6.黒薙支線 (黒薙~二見:1992年10月)

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この短いトンネルは第3トンネルです。

どうしても、立山砂防軌道と比較してしまいますが、こちらは軌間が762㎜なので、やはり立山砂防軌道より全ての設備が大きく感じられます。しかし、一般鉄道に比べれば、かなり小さいです。

 

7.黒薙支線 (二見~黒薙:1992年10月)

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第3トンネルを抜けて振り返って撮影した写真です。季節は紅葉の時期でしたが、天気が悪く、画像も最悪です。

 

8.黒薙支線 (黒薙~二見:1992年10月)

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ここは立派な落石防止用シェッド区間です。まだ新しい様ですが、この様な設備を設けると言うことは、相当重要な路線の様です。

第962話 1994年新潟交通:路線短縮後の東関屋

先日の第956話~第957話では、廃止が決まった1994年の越後交通長岡線の貨物列車の様子をお伝えしましたが、その日、朝の貨物列車を撮影して、夕方の貨物列車の撮影までの間に、新潟交通の東関屋へ出向きました。時間に余裕がなかったので、東関屋の構内撮影のみとなりましたが、路線短縮後初の訪問でした。

 

1.モハ18、モワ51 (東関屋:1994年10月)

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東関屋に辿り着いたのは、もう昼前でした。さっさと撮影して、とっとと戻らねばなりません。出発を待つモハ18の行き先は、もう燕ではなく月潟です。

 

2.モハ18 (東関屋:1994年10月)

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久々の東関屋は、起点駅として機能していましたが、相変わらず不便でした。しかし、このころの新潟交通は、まだやる気十分だったのか、東関屋の駅舎は小綺麗に生まれ変わっていました。

 

3.モワ51 (東関屋:1994年10月)

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駅舎は綺麗ですが、車両はいつもの通り!。モワ51は塗装を塗り替えて元気そうでした。

 

4.クハ46 (東関屋:1994年10月)

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さて、この日の訪問目的は、路線短縮で生き残った車両の状況確認でした。路線短縮により、かなりのクハが淘汰されましたが、クハ46だけが生き残りました。路線短縮後も2連運用はありましたが、ほとんどがモハの2連となり、クハ46の出番はあったのか?

 

5.モハ2229+モハ2230 (東関屋:1994年10月)

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小田急デハ2220形の2連も健在でしたが、モハ2229の顔が、この年の全般検査時に非貫通化されました。

 

6.モハ2230+モハ2229 (東関屋:1994年10月)

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モハ2230の方は、従来通りの小田急顔でしたが、なぜ、モハ2229だけ非貫通化されたのか、モハ2229はよほど隙間風や雨漏りが酷かったのか?。ところで、リニューアルされた東関屋ですが、検修場も白い外壁となり建て替えたのかと思ったら、外壁のみ張り替えただけで、中身はそのままでした。建物の一部だった、旧モハの廃車体もそのままです。やはり、やる気は表向きだけだったのか?

 

7.モハ14 (東関屋:1994年10月)

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モハは、路線短縮時に廃車されたモハ16以外は健在でした。この当時の在籍車両は下記の通りです。

・モハ11,12,14,18,19,21,24,25

・モハ2229+モハ2230

・クハ46  ・モワ51  ・キ116

 

8.モハ25+モハ24 (東関屋:1994年10月)

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一通り撮影を済ませたら、もう長岡に戻らなければなりません。戻りは長岡行きの高速バスです。ここから市役所前へ向かいます。この続きは別途お伝えします。

第961話 1995年阪堺:よく見ると貴重な車両達(その4)

阪堺線上町線は丘の下と上を1km程離れて並行していますが、元は別会社でした。歴史は共に古く明治時代の開業で、いずれも南海鉄道に合併されて同じ会社となりました。

 

1.モ129 (住吉:1995年12月)

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この頃の阪堺電車の運行系統は、現在とは異なり、阪堺線恵美須町浜寺駅前間、上町線天王寺駅前我孫子道、住吉公園間でした。大阪市内では、上町線は高級住宅街を走り、阪堺線は下町を走るイメージですが、阪堺線の方は、今池付近など当時は「大変おっかない一帯」を走っていたので、近寄るべからずでした。

 

2.モ302 (住吉:1995年12月)

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ここは住吉です。住吉では上町線阪堺線に合流しますが、上町線の住吉公園行は住吉で阪堺線と平面交差して、南海電車の住吉公園駅の高架脇まで乗り入れていました。

 

3.モ710 (住吉:1995年12月)

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この年導入されたばかりのモ710がやって来ました。ジンクス通り最新車は広告電車ではなく、モ701形オリジナルの塗装でした。この電車は住吉公園行です。見た感じでは、住吉公園まで乗る人はあまりいない様でした。

 

4.モ706 (住吉公園~住吉:1995年12月)

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ここは、住吉公園~住吉間の盲腸線です。駅間わずか200m程です。バックのパチンコ店の看板がいかにも大阪らしいですが、阪堺電車の車体広告も負けません!ところで、モ706も「すしの子」電車でした。いったい「すしの子」は何両いるのか?

 

5.モ351 (住吉公園~住吉:1995年12月)

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この盲腸線は、1913年に南海鉄道との接続のために延伸されたものですが、結局、住吉~住吉公園は2016年1月に廃止されました。

 

6.モ351,モ710 (住吉:1995年12月)

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現在は住吉公園行の電車も想い出の一コマです。そして、現在は上町線の電車が浜寺駅前行き、阪堺線に電車が我孫子道行き(一部浜寺駅前行き)の運行形態になっています。

 

7.モ302 (住吉~神ノ木:1995年12月)

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さて、今回は阪堺電車の初めての沿線撮影となった住吉界隈の様子でしたが、「おっかない一帯」を除く他の地域の様子も追ってお伝えします。

第960話 1995年阪堺:よく見ると貴重な車両達(その3)

阪堺電軌の住吉~我孫子道間は、阪堺線上町線の両方の電車が走るので、電車が引っ切り無しにやって来ました。そして、純粋な路面区間は意外に少なく、専用軌道ではどの電車も軽快に走っていました。そういえば、阪堺電車は古い車両もほとんどが間接自動制御でした。連結運転をやめてからも間接自動制御化が進み、これは、専用軌道区間が多かったからなのでしょうか。

 

1.モ164 (我孫子道:1995年12月)

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モ161形は、当初間接非自動制御でした。昭和初期の車両としては、直接制御ではない路面電車として珍しい存在でした。一部が間接自動制御のモ301形に改造されましたが、その後モ161形は形式を変えずに間接自動制御化されました。

 

2.モ126 (細井川住吉鳥居前:1995年12月)

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モ121形は元大阪市電1601形ですが、この車両は最後まで直接制御でした。モ121形は、翌年から廃車が始まり、部品を新車のモ601形に譲って、2000年に消滅しました。

 

3.モ304 (住吉鳥居前:1995年12月)

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ここは、住吉大社の目の前の住吉鳥居前です。この辺りは併用軌道ですが、路上駐車は当たり前で、車も自転車も人も電車もごちゃ混ぜに走っており、事故が起こらないのが不思議です。

 

4.モ303 (住吉鳥居前:1995年12月)

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モ301形はモ151形、モ161形からの改造車で7両在籍しました。改造時に間接自動制御化されました。この形式が、阪堺電車の間接自動制御化の先駆けとなりました。

 

5.モ302 (住吉鳥居前:1995年12月)

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このモ302はモ151形からの改造車ですが、モ161形からの改造車とは全く区別がつきません。

 

6.モ304 (住吉鳥居前:1995年12月)

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どういうわけか、モ301形ばかり続けてやって来ました。この頃のモ301形は全車同じ「すしの子」塗装でした。しかし、これだけ連発して同じ広告電車が来ると、広告電車の効果も相当なものです。「すしの子」電車が夢に出て来そうです。

 

7.モ167 (住吉鳥居前:1995年12月)

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ようやく違う広告電車が来ました。しかし、私にとってこの頃の阪堺電車のイメージは、ズバリ「すしの子」です。

第959話 1995年阪堺:よく見ると貴重な車両達(その2)

住吉界隈まで来ると、車庫に寄りたくなるのが人情です。早速、我孫子道の車両区にお邪魔しました。

 

1.モ172、モ123、モ166 (我孫子道:1995年12月)

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前回の車庫訪問は1年程前でした。この間に元京都市電だったモ253,256が廃車となり、モ251形は消滅し、代わって新車のモ710,711が増備されました。しかしながら、モ121形やモ161形などの長老は健在でした。

 

2.モ501、モ504、モ173 (我孫子道:1995年12月)

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それにしても、相変わらず新喜劇的な広告電車ばかりです。1両くらいシックなグリーン一色のオリジナル塗装の復活はないものか?これでは、どんなに貴重な車両でも撮影する気になれません。

 

3.モ253、モ252 (我孫子道:1995年12月)

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京都市電がいました。しかし、この2両は既に廃車です。この時点で車籍のあった元京都市電はもういませんでした。この2両が、なぜここにいたのか不明です。モ251形は元京都市電1800形でした。京都市電が廃止となり、1979年に6両が阪堺に移籍しました。製造は1950年~1953年なので、阪堺電車の中では決して古くありませんでしたが、やや小ぶりだったせいか、それともよそ者だったからなのか、16年目にしてお役御免となりました。

 

4.モ706 (我孫子道:1995年12月)

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この頃、じわじわと増殖していたのが冷房付きカルダン車のモ701形でした。珍しく、東急車輛製の路面電車でしたが、毎年1,2両の増備なので東急車輛にしてみれば、煙たい引き合いだったと思います。

 

5.モ704 (我孫子道:1995年12月)

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モ701形はこの年に2両増備されて、11両の大家族になっていました。しかし、不思議とモデルチェンジはなく、他社では新車と言えばVVVF車が当たり前になってきた頃ですが、その気配はまったくありませんでした。

 

6.モ706 (我孫子道安立町:1995年12月)

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モ710はこの年に導入された最新車です。新車お決まりのオリジナル塗装です。この先、どこまでこの車両が増殖するのか、全く興味がありませんでしたが、結局、この年に導入されたモ711が最終増備車となりました。そして、その後の新車は、翌年から投入されたモ601形にチェンジされますが、これまた同スタイル、同性能で見た目は全くモ701形と同じ車両でした。ならば、形式を変える必要はないと思いましたが、実は、廃車となったモ121形の部品流用とのことで、形式を変更したそうです。

 

7.モ301 (我孫子道安立町:1995年12月)

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新車の話題が続きましたが、この電車が来るとなぜかホッとします。モ301は元連結運転用の電車でした。既に連結器は外されて、モ161形と何ら変わらない電車になっていました。派手な広告電車の中では一際シックな、オリエント急行モドキのこの車両は、「すしの子号」です。「すしの子」は関東ではあまり馴染みがない様ですが、大阪では誰でも知ってるアレです。