2024-01-01から1年間の記事一覧
この日は、京津線の撮影ついでに、久々に浜大津へ行ってみました。浜大津は昔、江若鉄道の起点でした。江若鉄道を知る人も少なくなりましたが、私が幼少の頃、浜大津で見た雑多な気動車に衝撃を受けて、これが私の鉄道趣味の原点となりました。 1.91+92 (…
引き続き、京津三条駅前の様子です。この頃の京津三条駅は、鴨東線が出町柳まで延伸され地下化されていたので、京津線の駅だけが地上に取り残されていました。かつては、京津線の線路が京阪本線とつながっており、天満橋まで直通する「びわこ」号が運転され…
京阪電鉄京津線はこの1年後に地下鉄東西線に乗り入れるため、京津三条~山科間が地下鉄化されて並行区間が廃止されます。第1125話~第1127話でもお伝えしましたが、その最後の活躍を追って、時々京都へ出向きました。今回は、1996年の年の瀬も近い初冬の京に…
この頃の福井鉄道は、高床車華やか?なりし頃でした。しかし、実態は低床車を保有していないため、心苦しい現実のように思えました。 1.モハ81+クハ81 (家久:1996年8月) でも、鉄道線に入ってしまえばとりあえず折り畳みステップの必要はありません。軌…
1996年の夏休みは、あわや仕事で丸潰れになるかと諦めていましたが、なんとか3連休をもらい、北陸へ逃避行しました。その頃は大阪に住んでいたので、北陸は近かったのですが、やはり全部を回ろうとすると3日では足りません。よって、金沢と福井の早回りとな…
この頃の有田鉄道はレールバスしか走らない鉄道になっていました。なんだか南部縦貫鉄道と競うジリ貧鉄道になってしまいましたが、有田鉄道は休日運休と言いう必殺技で生き延びていました。 1.ハイモ101 (藤並:1996年2月) よって、この日は休日ではなく…
栗原電鉄は、あと10日ほどで電車の運行が終わるので、若柳の車庫にはすでにLE-Carも納入されて準備万端でした。電車の最後を見届けるため、マニアの方々も大勢いましたが、沿線で撮影していた人はほとんどいませんでした。やはり路線廃止ではないので、車…
この日は私にとって、栗原電鉄最後の訪問であり、M15形最後の撮影でしたが、走っていたのはM15形ばかりではありませんでした。 1.M182 (若柳~荒町:1995年3月) 福島からやって来たこの電車もしっかり走っていました。しかしながら、ずいぶん色褪せてい…
国内路面電車の老舗であるアルナ車輌はもともと地方私鉄の電車を製造するナニワ工機と称していました。一時期、阪急や大阪地下鉄など大手の電車も製造していましたが、ローカル私鉄向けに製造された電車はとても好ましい電車が多く、私はナニワの電車が大好…
今回の田川市石炭資料館訪問の最大の目的は、三井石炭鉱業山野鉱業所の凸型ELを見ることでした。私は以前から炭鉱の小型ELに大変興味があり、この頃はスクラッチビルドで太平洋炭鉱の凸型8t機等のスケール模型に励んでいましたが、ここの凸型ELもそのターゲ…
1995年当時の田川市石炭資料館の展示車両の話題を続けます。 1.三井山野鉱業所1号 凸型EL (田川市石炭資料館:1995年8月) 田川市石炭資料館は、もともと炭鉱だった場所なので、大きな竪坑の櫓もそのまま展示品になっていました。しかし、炭鉱の跡地は奇…
1995年8月、筑豊の専用線巡りを行った際に田川へ行きました。その目的は田川市石炭資料館のガラクタを見るためでした。そこには直方市石炭記念館とは違ったナローの運炭機関車なども展示されているとの情報があり、例によって採寸用の巻き尺を持参して向かい…
今回の島原訪問は3回目となりますが、なぜか今回も南線の方に足が向いてしまいました。この頃は南北寸断で南線は大変な状況でしたが、それでも廃止の話題などありませんでした。むしろ復興に向けて頑張っていた頃です。しかし、今となっては、あの復旧工事は…
GWの島原は陽射しが強かったですが、夕方になると穏やかな陽気になってきました。日中の普賢岳は霞んでいましたが、様子を伺いに布津新田に向かいました。 1.キハ5503 (布津新田~深江:1994年4月) ここは、普賢岳をアップで撮影できる場所です。しかし…
1994年のGWは、滞在先の広島からローカル線巡りが始まりました。そのルートは九州方面へ向かったのですが、そのあと大阪から北陸を経由して東京に戻る支離滅裂なものでした。今回はその最初に向かった九州の島原鉄道南線の話題です。 1.列車代行バス (川…
阪急嵐山線での2800系定期運用は1995年8月16日で終了となりました。その後はイベントのサヨナラ運転で10月が最後だったようで、神戸線や宝塚線も走ったそうです。私はイベントが好きではないので、2800系の最後を見に行きませんでしたが、どうせなら、京都線…
阪急嵐山線は、もともと全線複線の路線でしたが、戦時中にお国のため資材供出で単線化されました。戦後は複線に復旧されることもなく現在に至ります。この路線は行楽シーズンは梅田からの直通列車も走りますが、普段はとてもローカルな路線で、いつしか阪急…
1990年代も半ばになると、古い電車がことごとく消え去りましたが、気が付くと新しいと思っていた電車まで消え始めました。ここで言う古い電車とは吊掛車であり、新しい電車はカルダン車のことですが、ある日、京都へ出向いた帰りに乗った阪急嵐山線で思いも…
この頃の上野駅はいろんな特急や急行列車が目まぐるしく発着しており、一日いても飽きません。しかし、国鉄車両に興味がない私は、とっとと上野駅を出て、珍しく大手私鉄巡りです。 ここからは、カラー写真も混在しますが、暗い場所で撮影した画像は、なぜか…
茨城交通湊線をサラッと見たあとは、東京へ戻りながら寄り道です。しかし、この頃の常磐線はまだローカル本線だったので、列車本数が少なく、時間もかかりました。時間的にすべてのローカル私鉄を見るのは厳しかったので、とりあえず関東鉄道の鉾田線と筑波…
1200回目の節目が来ました。現在、当ブログは1996年頃の各地ローカル私鉄の様子を主体にお伝えしていますが、だんだん古い車両やローカル線ネタが厳しくなってきました。ときどき号外を発してお茶濁しをしていますが、この先どのように迷走するかわかりませ…
近江鉄道は、八日市を中心に3方向の路線を有しますが、もともと米原~貴生川が本線であり、開業の目的は北陸方面から「お伊勢参り」の短絡ルートだったそうで、この沿線の地域輸送が目的ではなかったようです。よって、沿線は人口希薄な場所が多く、目立った…
今回は五箇荘から八日市方面に歩いて撮影です。五箇荘を出ると並走していた東海道新幹線と別れて田園地帯に入ります。次の八日市までは4.4㎞の距離がありますが、この路線は集落から少し離れた田園を坦々と進みます。 1.モハ4+クハ+1219 (八日市~五箇荘…
近江鉄道にはこれまでほとんど乗車したことがなかったのですが、毎週のように新幹線でこの沿線を通過していたので、沿線の様子はだいたい把握していました。近江鉄道の五箇荘~高宮間は新幹線とほぼ並走しています。しかし、新幹線の車窓から見るかぎり、こ…
この日の撮影目的は、元西武401系の導入により淘汰されるであろう、1系、500系の走行を撮ることでした。すでに彦根構内には、多くの元西武401系が留置されており、これらが運用されれば、間違いなく1系、500系はなくなります。しかし、1993年に先行して導入…
近江鉄道と言えば、「車歴の呪縛」です。その複雑怪奇な車歴に悩まされ、気が付けば車庫以外でのまともな撮影を行ったことがありませんでした。よって、今回は彦根の車庫をパスし、元西武401系に置換えが迫る?近江オリジナル電車の、初めての沿線撮影の様子…
南海電鉄1521系は、この年の7月に大半が廃車され、そのすべてが弘南鉄道に譲渡されました。正直、弘南鉄道はこの車両を購入してどうするつもりなのか不可解でしたが、結局、使いこなせなかったのか、再び元東急7000系のみの所帯に戻ってしまいました。 1.…
南海電鉄は1995年4月に貴志川線の新性能化を行いましたが、本線にはまだ新しい?吊掛車が残っていました。それは通称汐見橋線という、大阪のど真ん中を走るローカル線にいた1521系でした。しかし、その1521系もついに、1995年7月に終焉を迎えることになりま…
安善駅から浜安善ヤードまで1㎞程の道程ですが、その延長上にあった石油会社の引込線はすでに跡形もありませんでした。かつて、浜安善は大手石油会社の石油備蓄タンクがひしめき合う一帯でしたが、ある時期に浜安善から石油会社はほとんど撤退したようで、そ…
浜安善支線探訪の続きです。今回は安善橋を渡って安善二丁目に踏み込みますが、ここから先は、私にとって未踏地帯でした。 1.浜安善支線の撮影ポイント 上図は、安善橋から先の撮影ポイントを示したもので、〇番号は以下の写真番号を示します。今回は⑬~㉓…