ローカル線の回顧録

1970年代後半から2000年頃までのローカル線の記録

第107話 1987年新潟交通 越後の寸景(その4)

1987年は10月から半年間ほど新潟に長期出張となり、越後線小針駅の近くにあった会社の寮で暮らしました。そして休みの日は、暇つぶしに新潟交通の沿線をブラブラと足の向くまま撮り歩るいていました。結構多くの写真を撮りましたが、目的もなく撮っていたのでブログに投稿するにあたりどの写真を使うか悩みます。とりあえず天気が良くて、ピントが合っている写真を優先して選んでいますが、どうもネガの劣化でスキャンした画像が思わしくありません。よって、ネガの状況がよろしくないものは、一部プリントからスキャンした画像と差し替えました。

 

1.モハ16とモハ19の交換 (木場:1987年9月)

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木場駅での列車交換の様子です。新潟交通ではこの頃は列車の運行本数が最も多かった時期です。特に白山前~白根間は30分間隔だったので、途中の交換駅では頻繁に列車交換が行われ、木場駅もその一つでした。 木場駅も貨物側線を有した駅で農協の倉庫もあり、かつては米の出荷で賑わった駅だった様ですが、この頃は周辺が新潟近郊のベッドタウン化により住宅が増えていました。

 

2.モハ14 (月潟:1987年9月)

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 新潟交通は白根を過ぎると列車本数も半減し、いきなりローカル線となりました。新潟~燕間は上越新幹線や高速バスに乗客を奪われて完全に撃沈状態でしたが、月潟あたりは新幹線や高速バスとは無縁な地域だったので辛うじて新潟交通の存在価値がありました。

 

3.モハ24 (月潟~曲:1987年9月)

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 月潟あたりも中ノ口川の土手に沿って走るため、撮影ポイントが限られました。月潟の手前に土手から軌道敷が見渡せる場所がありました。ここは1985年の蒲原鉄道の帰りに立ち寄った場所ですが、夏場は雑草が生い茂り、この場所に辿り着くまでが大変でワイルドな撮影でした。

 

4.モハ21 (月潟~曲:1987年9月)

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 土手から見下ろすと、月潟は結構住宅が立ち並んでいました。しかし、モーターリゼーションと過疎化により、輸送需要は下がる一方でした。この時期はまだ、朝の3連が運行されていましたが、やがて1991年には燕~月潟間が廃止となり、月潟は不便な場所になりました。

 

5.モハ16 (東青山~東関屋:1987年9月)

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 信濃川関屋分水を渡るモハ16です。ここは元々陸地でしたが、信濃川治水の一環で1970年に掘られた信濃川の放水路です。この放水路によって新潟交通は路線の変更を余儀なくされましたが、ご覧の様に立派な橋梁を作ってもらいました。

 

6.クハ48+モハ16 (東青山~東関屋:1987年11月)

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 関屋大橋を古風な2連がやって来ました。橋が立派すぎて列車が申し訳なさそうに見えます。新潟交通廃止後この橋は線路だった部分を人道化して現在も使用されています。

ところで、この写真はプリントからスキャンしたものです。ネガの方は画面の左半分が黄色く変色してしまい、使い物にならず30年前のプリントからスキャンしました。若干の画像補正をしましたがクリアな画像が再現できました。