ローカル線の回顧録

1970年代後半から2000年頃までのローカル線の記録

第824話 1993年新潟交通:最後の燕(その5)

この日は、午後には雨は止みましたが、結局晴れることはありませんでした。重苦しい梅雨空の下、線路沿いの畦道を歩いて、灰方まで戻ってきました。この日は、電車にも乗らずに12kmも歩いてしまいました。

 

1.モハ19 (小中川~灰方:1993年7月)

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 この写真の背景は現在の燕北中学校です。ここは、北陸自動車道上越新幹線に挟まれた区間です。灰方から小中川の間は結構宅地化されており、特に小中川周辺は新興住宅街になっていました。

 

2.モハ19 (燕~灰方:1993年7月)

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 灰方の周辺は広大な田園地帯のオアシスのような集落でした。この当時はすぐ近くに燕高校があり、通学で新潟交通を利用する学生も結構おり、以前は燕~灰方間の1駅間だけの通学列車も走っていましたが、路線存続の糧にはなりませんでした。

 

3.モハ19 (灰方~燕:1993年7月)

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 最後の走行撮影は、やはりここです。都合よく、車体広告なしのモハ19です。しかし、雨は止んだもののスッキリしません。そして、霊峰弥彦山も見えません。

 

4.モハ21 (灰方:1993年7月)

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 再び灰方駅です。もう十分に沿線も歩いたので、そろそろ撤収です。

さて、最後くらいは電車に乗らないと失礼です。帰りの電車はモハ21でした。暗いので前照灯を点灯してやって来ました。

 

5.最終日の新潟交通燕駅前 (燕:1993年7月)

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 帰りに、燕駅に寄りました。燕駅はJRと新潟交通が隣接していましたが、構内は一体化しており、中間改札もありませんでした。しかし、改札口は別々で、新潟交通もこの様な小さい駅舎を構えていました。

 

6.燕駅構内 (燕:1993年7月)

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 右文字で書かれた「新潟行電車」の標記が歴史を物語っていました。新潟交通燕駅開業は1933年8月15日なので、ちょうど60年で幕を閉じたことになります。

 

7.モハ19 (燕~灰方:1987年11月)

最後に、1987年当時の天気の良い日の灰方付近をご覧頂きます。

私が新潟交通の撮影に本腰を入れたのが1987年でした。それから6年が経っていましたが、まさか新潟交通も廃止に追い込まれるとは思ってもいませんでした。新潟交通の全線廃止は1999年4月4日でした。燕~月潟間の廃止から6年後のことですが、私にとっては、燕~月潟間の廃止が新潟らしい新潟交通の終焉でした。