ローカル線の回顧録

1970年代後半から2000年頃までのローカル線の記録

第823話 1993年新潟交通:最後の燕(その4)

雨は相変わらず降っていましたが、小降りになったので、こんどは六分から再び燕方面に歩いて戻ることにしました。しかしながら雨のせいなのか、沿線で撮影をする人も、歩いている人も誰もいません。寂しい最終日です。

 

1.モハ14 (新飯田~六分:1993年7月)

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 六分~新飯田間は中ノ口川の土手に沿って線路が敷設されていましたが、一部の区間は土手上となっていたので、開けた空間で撮影ができました。小雨となり、少し明るくなってきました。

 

2.モハ14 (六分~新飯田:1993年7月)

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 こんな天気ですが、電車は満員でした。なぜ2連を出さないのか不思議に思いましたが、クハを一挙に運用から外したので車両が足りなかったのかも知れません。ちなみに、この頃はモハ同士の2連がよく運用されていました。

 

3.モハ21 (新飯田~六分:1993年7月)

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 新飯田駅の手前では、中ノ口川の土手に夏草の黄色い花が満開でした。この辺りはあまり良い景色ではないので、まともに電車を撮影したこともありませんでしたが、最後になって、この場所を象徴するような写真が撮れました。

 

4.モハ21 (六分~新飯田:1993年7月)

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画面の信号機は新飯田駅の場内信号機です。このすぐ先は新飯田駅です。線路脇の小道は車も走れないほど狭い生活道の様です。江ノ電の沿線を連想します。

 

5.モハ21 (新飯田:1993年7月)

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 モハ21を追い掛けて再び新飯田駅に来ました。普段の新飯田駅は人影がありませんでしたが、この日は結構多くの乗降があった様です。でも、今日限りです。ところで、この辺りは電車がなくなるととても不便になってしまいます。さらなる過疎化が進みそうでした。

 

6.モハ21 (新飯田:1993年7月)

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 雨がやみ、新飯田駅には列車を撮影する同好者が現れました。線路上で三脚を立てているようです。そこは使用されていない貨物側線なので、列車運行の支障にはなりませんが、今なら間違いなく怒られます。

 

7.新飯田駅構内 (新飯田:1993年7月)

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そういう私も同じ側線上で新飯田駅の構内を撮影していました。新飯田駅には、貨物側線が残っていましたが、不思議な線路配置でした。この駅もかつては米の輸送で賑わった様です。

この画面の前方が月潟方向です。画面の左に曲がる線路は燕方面です。燕行きの電車はこの駅を出ると進路を直角に曲げます。燕へはこのまま真っすぐに貨物側線を延伸した方が近いと思いますが、どうやら灰方を経由することに意味があった様です。