この日は、燕~月潟間の最終日でしたが、さほど普段と変わらない状況でした。
臨時列車の運行もなく、もともと列車の運行本数も少ない区間だったので、雨の中をブラブラ歩いていたら、列車を撮影することもなく新飯田まで来てしまいました。
1.モハ21 (新飯田:1993年7月)
モハ21には大勢の乗客が乗っていました。普段からこんなにいっぱい乗っていたら廃止になるわけがありません。やはり、「お名残り乗車」なのでしょうか。新飯田では、5,6名下車しましたが、ワンマンカーなので、運転手さんは大忙しでした。
2.モハ21 (新飯田:1993年7月)
新飯田も貨物側線を有する立派な駅でした。沿線は集落を除くとほとんどは広大な田園地帯です。恐らく、自動車社会になる前は、収穫された米を最寄りの駅に持ち寄って、新潟交通の貨物で運んでいたと思われます。そんな頃の新潟交通を見てみたかったです。
さて、ここから列車は中ノ口川に沿って延々と土手を走ります。この先は良い撮影場所もありませんが、さらに歩きます。
3.モハ19他 (六分:1993年7月)
そして、六分まで歩いてしまいました。六分は広い構内を有する、かつては貨物輸送の拠点だった駅です。貨物と言っても工場はなく、ここも米です。しかし、米の輸送はなくなって久しく、このだだっ広い構内は何のために残されていたのか?
4.クハ49+クハ50 (六分:1993年7月)
六分には多数の車両が留置されていました。いつもは、留置車両はありませんでしたが、どうやら部分廃止を機に、余剰廃車となる車両を解体するため、ここに退避させたようです。
5.クハ47+モハ16+クハ48 (六分:1993年7月)
留置車は、クハ47,クハ48,クハ49,クハ50,モハ16の合計5両で、すべて旧小田急ボディーの車両でした。ここにいなかったのは、クハ45とクハ46ですが、この2両は残りました。
6.モハ14,クハ50 (六分:1993年7月)
クハが2両残された理由は、存続する区間にはまだ2連の需要があったからです。それでは六分に集結したクハはどうかと言えば、路線短縮と言うよりも、3連運行の廃止など輸送需要の減少によるものです。以前、第714話でお伝えした1993年4月訪問時点、すでに余剰となったクハが燕の構内に留置されていましたが、まさしくその車両が、六分に移動していました。
7.モハ14,クハ50他 (六分:1993年7月)
結局、六分に留置されていた旧小田急ボディーの車両達は、1か月後の8月31日に正式に廃車され、その後ここで解体された様です。