ローカル線の回顧録

1970年代後半から2000年頃までのローカル線の記録

第426話 1986年国鉄(北海道):酷寒の気動車(その2)

 1986年は国鉄の分割民営化に向けて、なにかと微妙な時期でした。

特に北海道は赤字路線が多く、民営化されたら大半の路線が廃止になることが目に見えていました。これから乗る標津線もそうでしたが、これらの路線がなくなると、もう貧乏旅行も出来なくなってしまいます。

 

1.厚床駅 (厚床:1986年3月)

f:id:kk-kiyo:20191217202703j:plain

厚床駅は標津線が分岐するこの辺りでは比較的大きな?駅です。この駅は前号でも触れましたが、かつては簡易軌道風連線の起点でもありました。そして、その簡易軌道の起点で待合所にもなっていた田中屋食堂というのが、この当時は厚床駅の駅弁を製造販売する田中屋となって残っていました。 当時のJTBの時刻表にも厚床駅の「ほたて弁当」が標記されていました。今は標津線もなくなり、田中屋の「ほたて弁当」もなくなり、厚床駅はなにもない無人駅になってしまいました。

 

2.当時の「ほたて弁当」の包装紙

f:id:kk-kiyo:20200823063709j:plain

当時の「ほたて弁当」の包装紙がありました。こんな包装紙があったということは、「ほたて弁当」を食べたということになりますが、もう30年以上も前の事なので覚えていません。ところで、この包装紙は時代を物語っています。

先ずは、お値段500円。当時としても高くはありませんでした。「いい日旅立ち」とは、かの山口百恵のヒット曲ですが、もうひと昔前、1970年代の国鉄のキャンペーンだったように思います。少なくとも、1986年当時は「いい日旅立ち」ではなく、世の中は「エキゾチック・ジャパン」だったような気がします。「呼び返そう父祖の地」とは、北方領土返還運動の一環ですが、当時の北方領土は非常に緊張しており、今以上に皆さんも熱心だったように思います。北方領土を示す地図まで描かれていますが、何と根室半島まで北方領土?の様に見えます。「北方領土の復帰運動にご協力下さい。」と書かれていますが、何をすればよいものか? そして、「お願い」の「◎内容、販売員の態度・・・国鉄係員にお知らせ下さい。」とは、当時の国鉄職員さんは、駅弁のクレーム対応までやっていたのでしょうか? ご苦労なことです。

 

3.キハ40130(厚床:1986年3月)

f:id:kk-kiyo:20191217203250j:plain

 この列車に乗って、中標津に向かいました。厚床中標津間は1日4往復のローカル線です。その車窓は真っ白でどこを走っているのか全くわかりません。沿線には家が一軒も見当たりません。この辺りは人口よりも牛の頭数の方がはるかに多い地域ですが、この時期は牛も見当たりません。

乗客は私だけ。終点まで貸切状態でした。これでは廃止対象となっても仕方ありません。

 

4.キハ40130(中標津:1986年3月)

f:id:kk-kiyo:20191217203416j:plain

 雪の降るなか、10:27に定刻通り中標津に到着しました。

ここで、釧路から来る根室標津行きに乗り換えですが、また1時間待ちです。

 

5.JTB時刻表 1986年1月号抜粋

f:id:kk-kiyo:20200126155452j:plain

ちなみに当時の標津線の時刻表です。厚床中標津間は4往復のみ。私が乗ったのは、厚床発9:20(353D)ですが、この次の列車は6時間後までありません。 そして中標津からは、11:33発の列車に乗車しましたが、この列車は釧路~標茶間は急行しれとこ2号の一部だった急行くずれでした。

 

6.キハ2287+キハ22268 (根室標津:1986年3月)

f:id:kk-kiyo:20191217203449j:plain

中標津から乗ったキハ22形は2連でしたが、ほとんどの乗客は中標津で降りてしまい、その先はまたガラガラでした。先程乗ったキハ40形は空気ばねでユラユラと眠気をそそりましたが、今度のキハ22形は途中空転したり、暖房も効いてなく非常に寒い思いをしました。キハ22形は床が板張りなので、気密性の高いキハ40形に比べると暖房の効きがイマイチのようでした。しかし、この列車は先ほどまで急行料金を取っていました。周遊券なら急行料金はかかりませんが、あえて急行料金を払ってまでは乗りたくない車両です。

 

7.キハ22268 (根室標津:1986年3月)

f:id:kk-kiyo:20191217203510j:plain

 約30分ほど乗車して、目的地の根室標津には 12:02に到着しましたが、雪が本降りとなりました。

 

8.キハ22268+キハ2287 (根室標津:1986年3月)

f:id:kk-kiyo:20191217203535j:plain

 ここからバスに乗り換えて、トドワラを目指しました。

根室標津から乗ったバスは、トドワラ観光号と称する、いかにも観光バスの様な名前でしたが、実態は普通のワンマンバスで、昔どこかで乗ったことあるような、懐かしい丸っこいスタイルのバスでした。恐らく関東あたりのバス会社から払い下げを受けた中古バスです。

吹雪の中、私を含む5名ほどの物好きが乗ったバスは、40分程でトドワラに到着しましたが、一面真っ白。

バスの運転手いわく、道路から出ちゃだめ!バスが見える範囲で行動するように!!帰りはこのバスが最終なので絶対に戻って来るように!!!。確かに、このバスは1日1往復なので、始発であり最終でもありました。

 

9.最果ての地 (トドワラ:1986年3月)

f:id:kk-kiyo:20200822161514j:plain

この写真は、その時のトドワラです。この世の様相ではありません。こんなところに置いて行かれたら、本当にあの世行きになってしまいます。

酷寒の中、行くところもなく、結局、5分程で皆さんバスに戻って来ましたが、このバスの出発は1時間後・・・エンジンが止まったバスの車内は冷凍庫のように寒く、関西方面から来たと思われる乗客が、関西弁で「もうアカンバスやなー!!」と一言。ちなみに、このバスは「阿寒バス」でした。

これで往復1480円。なんだか観光詐欺に遭遇したようでしたが、自業自得です。そしてこのバスは路線バスなので定刻厳守。文句も言えませんでした。