ローカル線の回顧録

1970年代後半から2000年頃までのローカル線の記録

第817話 1993-94年広島:広電の神戸市電(その4)

広電1150形の続きです。神戸時代に残念な過去を持つ1150形ですが、その足跡を少しだけ顧みたいと思います。

 

1.1151 (原爆ドーム前~紙屋町:1994年5月)

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 そもそも1150形は新製当初、次世代の路面電車を担う期待の新車として、登場しました。いわゆる、神戸版PCCカーです。車両デザインは申し分なく、最初の2両は駆動装置の比較検証のため、試作車的位置づけでした。

 

2.1151 (己斐:1993年11月)

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 この1151は、川崎車輌製の直角カルダン車で、1152はナニワ工機製の平行カルダン車でした。何が勝敗の決め手になったのかよくわかりませんが、1年後に量産となった1153~1158は全て川崎車輌製の直角カルダン車になりました。

 

3.1151 (宇品:1994年2月)

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 それにしても、僅か1年足らずで量産車が導入されたとは、どう考えても最初から川車に軍配が上がっていたような・・・。たかが路面電車と言えども、製造には半年はかかりますし、調達品の納期を考慮すれば、最短でも1年以上前には、内示が必要です。なんとなく地元優先名目の政治的な力が働いたようにも思えますが・・・。その頃はお役所の交通局とは言え、ゆるゆるな時代だったのかも知れません。

 

4.1151 (十日市~本川町:1994年5月)

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 まあ、昔のことはあまり詮索しないで先に進めますが、そんな背景によって、1150形は一挙に8両の所帯となり、利用者には大サービスとなるはずでしたが、困った!!

故障が多く、運転手さんも嫌がるほど使い物にならなかったそうで、8両の厄介モノになってしまいました。やはり勇み足というのか、検証不足というのか、結局は現場が泣くことに。 

 

5.1151 (白島:1994年7月)

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 ちょうど同じ頃、広電にもカルダン車の試作である551が登場しましたが、こちらは石橋を叩いて、1両ポッキリのお試しでした。しかし、やはり故障が多く、カルダン車を断念して吊掛車となり、量産車は最初から吊掛車で登場しました。

 ・・・で、神戸の方は8両全滅で、全車を吊掛車に改造して再起を図りました。ライバルの大阪市電からもらった台車に履き替えて吊掛車となったわけですが、1150形にしてみれば、これほど屈辱的なことはなかったはずです。東洋一の市街電車は、残念な汚点を残して消えて行きましたが、車齢の若い1150形は、1155を保存のため神戸に残して、7両が広電に再就職しました。

 

6.1152 (宇品:1993年8月)

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1150形では唯一ナニワ工機製の1152は、広島では「殺虫剤電車」となり、余生を送っていました。

ところで、ナニワ工機川崎車輌も時代が変わり、アルナ工機川崎重工となり、共同で1980年には広電に3500形軽快電車を納入しました。3500形も相当な厄介モノだったようですが、1本だけなので、広電は我慢できたのかもしれません。それにしても、路面電車のカルダン化にはかなりの年数がかかりました。この間に欧米の路面電車とは大差がついてしまいました。