ローカル線の回顧録

1970年代後半から2000年頃までのローカル線の記録

第1017話 1989年西鉄:遅すぎた出会い(その5)

西鉄200系の動態保存車を見るために、西鉄筑紫車庫を見学させて頂きましたが、この車庫はかなり大きく、目的の場所に移動するだけでも大変でした。車庫内には200系が点々と留置されていました。

 

1.モ213+サ253+モ214+モ217 (筑紫車庫:1989年9月)

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4連の200系がもう1本留置線にもいました。留置線ではまともに撮影できないと、諦めていましたが、端っこだったので意外にも綺麗に撮影ができました。しかも日差しも回復してきました。

 

2.モ213 (筑紫車庫:1989年9月)

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200形のサイドビューも綺麗に取れました。この時は、この4連が動態保存車かと思っていましたが、これは動態保存車ではありませんでした。後で確認したところ、動態保存車はモ220+サ65+モ216の3連とのことで、この日は現車を確認できませんでした。動態保存車はイベント用に残されたそうで、1993年まで使用されました。よって、イベント運転時に走行撮影は可能でしたが、やはりイベント運転は気が進まず、結局200系の走行写真は1枚もありません。

 

3.モ213 (筑紫車庫:1989年9月)

筑紫車庫で確認できた200系は下記の通りです。

・2連:福岡← ク63+モ210 →大牟田

・4連:福岡← モ207+サ252+モ201+モ209 →大牟田

・4連:福岡← モ217+モ214+サ253+モ213 →大牟田 

 

4.モ214 (筑紫車庫:1989年9月)

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モ214は中間車として収まっていますが、製造時は両運車でした。1952年に片運化され、さらに1976年に4連化のため中間電動車化された車両です。

200系は元々全車が非貫通の両運車でしたが、固定編成化のため、片運化や中間車化されました。特に制御車として製造されたク250形は電動車化されてモ200形になったものと、付随車化されてサ250形になりましたが、ク250形は形式消滅し、200系の制御車はク60形に統一されました。なお、1両だけサ65と言う異端車がいましたが、これは元博多湾岸鉄道汽船キハ102を前身とする元気動車で、ク60形と兄弟車両です。サ65は動態保存車に含まれていましたが、残念ながら現車を見ることができませんでした。

 

5.モ217 (筑紫車庫:1989年9月)

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モ217は旧ク258です。この車両は戦時中のどさくさで、電動車として竣工できなかった4両をクハ250形(ク275~260)として竣工させた内の1両ですが、1952年の200系連結化時に電動車化されてモ217となりました。

これで筑紫車庫の200系見学は終わりです。想定外の200系との出会いには、何かの縁を感じました。改めて筑紫車庫の職員さんには感謝です。ところで、この日確認できなかった200系の安否を聞き忘れていました。これは大失敗です。もしかしたら、残りの200系も筑紫車庫にいたのかも知れません。

 

6.8000系6連 (筑紫~津古:1989年9月)

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筑紫車庫訪問後、何気なく最新の8000系を撮っていました。なんだか京成電鉄の初代AE車の前面窓を大きくしたようなデザインと思えてしまいますが、特急料金不要な列車としては申し分ありません。ただし、抵抗制御車です。時期的に賢い選択だったのか?

 

7.8000系6連 (筑紫~津古:1989年9月)

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しかし、8000系も2017年に引退して現在は跡形もありません。結構ドライな西鉄です。さて、今となっては、200系も2000系も8000系もいなくなってしまいましたが、なにより本物の200系を拝むことができたので、良しとしましょう。ところで、この日はこのあと、「鯰田の凸電」を見るため直方を目指しました。