ローカル線の回顧録

1970年代後半から2000年頃までのローカル線の記録

第23話 1987年栗原 鉱山閉山の頃(その3)

人気のない山中を歩くこと1時間。ようやく山間が開けて細倉の街が見えてきました。天気も回復し、電車がまぶしいくらいです。

 

1.山を登って来たM153 (細倉~駒場:1987年)

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 栗原電鉄は石越から細倉に向けてほぼ登りの片勾配ですが、鶯沢を過ぎると連続勾配となり、やはり長編成の貨物は非力なED20形では一度で登れず、かつては途中で貨車を小分けにして勾配区間を対処したそうです。

 

2.来た道を俯瞰 (細倉~駒場:1987年11月)

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 細倉の手前に小高い山があり、とりあえず登ってみました。山頂周辺は公園になっていましたが初冬のこの時期には人っ子一人いません。はるか下界は先ほど歩いてきた道です。タイフォンが山間に響いて電車が登ってきました。

 

3.山を下るM153 (駒場~細倉:1987年11月)

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4.細倉鉱山方向を俯瞰 (駒場~細倉:1987年11月)

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 すでに細倉鉱山は閉山後で、細倉の街も閑散としていました。写真の中央に電車が止まっていますが、そこが細倉駅で、その先は細倉鉱山への貨物線が続いています。写真の右上が細倉鉱山ですが、足尾鉱山などと同様に鉱石精錬の影響なのか山肌は木もなく荒涼としていました。あれから30年が過ぎ、鉄道もなくなってしまいましたが、今はどうなっていることやら?

 

5.存続のスローガンがむなしさをそそる!(細倉:1987年11月)

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終点の細倉駅です。駅も駅前も人気がありません。「乗って残そう・・・・」とは書かれていますが、乗る人がいなければ無理。鉱山の閉山は過疎化に拍車を掛けたことは間違いなく、鉄道ばかりか街もろともなくなってしまいそうでした。

 

6.延々と続く直線を行くM181 (津久毛~沢辺:1987年11月)

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7.夕陽を浴びるM181 (津久毛~沢辺:1987年11月)

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帰りは細倉からM153に乗り、夕景の撮影を行うため、津久毛で下車しました。冬枯れの田園地帯を湘南顔のM181が猛スピードで飛ばして来ました。油断していたのでちょっとブレてしまいました。この日は休日の夕方なので、買い物帰りの乗客なのか車内に人影が見えますが、それでも18m車では大きいくらいです。

 栗原電鉄の初回訪問は以上です。当時は東北も新幹線を使えば驚くほど近くなっていました。この日も楽勝で日帰りです。

その後、栗原電鉄は補助金を絶たれ、正念場を迎えます。その後の状況は別途報告します。