ローカル線の回顧録

1970年代後半から2000年頃までのローカル線の記録

第36話 1985年茨城交通 困ったCI化(その2)

1985年当時は常磐線の列車は本数が少なく、そんなに速くなかったので、湊線の起点である勝田は非常に遠く感じました。常磐線中距離電車利根川を越えると、聞き慣れない茨城なまりが飛び交い、湊線の訪問はちょっとした東北旅行の様でした。

 

1.秘蔵っ子ケハ601 那珂湊:1985年5月)

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ここにも強烈なのがいました。それがセミステンレス車のケハ601(注1)です。

当時はEXPO'85つくば万博で、茨城はそれなりに盛り上がっていました。しかし、ケハ601だけはステンレス車体が幸いしてCI化から外されました。しかしながら“けったいな車両”です。ステンレス車がまだ珍しかった1960年に、なぜか新潟鐵工が奮起してステンレス試作車を造ったのがこの車両です。新潟鐵工と湊線の関係は古く、湊鉄道時代にまで遡りますが、新潟鐵工からすると茨城交通は良いお得意様で、どの様な営業活動をしていたのか、この試作車を茨城交通に売っちゃいました。しかし今でこそ“昭和時代のステンレス流し台”の様な車両ですが、導入当時はギンピカの新車!!茨城あたりでは、とても都会チックな車両だったのでしょう。

(注1)ケハ601の車歴:茨交ケハ601:1960年新潟鐵工製

ケハの「ケ」は軽油で走る気動車ディーゼル車)を意味しました。もともと茨城交通気動車はケハと称し、機関車はケキと称していましたが、北海道グループの気動車が入線すると以降の車両はキハとなりました。

 

2.リコ式吊り手が目を引くケハ601の車内 那珂湊:1985年5月)

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ケハ601は湊線の秘蔵っ子的存在でしたが、異端児でもありました。せっかくのトルコン車でしたが総括制御ができず、いつも多客時に引きこもっていました。もともと試作車だったので手抜きだったのか?新潟鐵工らしい中途半端な車両でした。しかし閑散時には重宝されたようで、1992年まで生き延び、その後はダルマとなって現在も那珂湊にいます。

 

3.朝の4連 (平磯~磯崎:1985年5月)

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湊線の沿線は、那珂湊から勝田寄りは田園地帯ですが、阿字ヶ浦寄りはまるで北海道の平原の様な畑作地帯です。

 この日は朝の4連を広大な畑の中で撮りました。元国鉄キハ11形3両+元留萌キハ2000形ですが、白装束も4連になると結構壮観です。当時の気動車は電車と違い、大抵はどんな車両も連結運転ができたので、このような異なる形式の混結が楽しめました。

4.朝の4連 (磯崎~平磯:1985年5月)

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当時の湊線は貨物輸送こそなくなりましたが、旅客輸送はそこそこの需要があり、車両の増備が必要でした。しかし、1970年代とは違い適当な中古車がなく、1980年代はちょうど国鉄キハ40系の増備で廃車となった初期の液体式気動車に頼らざるを得ませんでした。これは茨城交通だけではなく、関東鉄道島原鉄道などにも共通して言えました。茨城交通では国鉄からキハ11形を3両購入し、キハ11形(注2)とし、長らく使用しました。当時は何の変哲もないキハ11形でしたが、現在この3両のうちキハ112は鉄道博物館に保存、キハ113はリニア・鉄道館に保存されています。

(注2)キハ11形の車歴:茨交キハ11形(キハ111,112,113)←国鉄キハ11形(キハ1119,1125,1126):1966年東急車輛

 

5.キハ221 (平磯~磯崎:1985年5月)

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 茨城交通は、その後更なるCI化を図ります。白装束が更におかしな方向に向かい、これには私も絶句でしたが、別途報告します。