ローカル線の回顧録

1970年代後半から2000年頃までのローカル線の記録

第222話 1987年茨城交通:恥ずかしいCI化(その2)

さて、湊線の車両がアメリカン化される前に、常磐線モドキカラーの見納め撮影をしなければなりません。一仕事増えてしまいました。

暇な学生身分もあと2か月を切りましたが、就職までに、この年の3月末で廃止となる筑波鉄道の最後の撮影、関東鉄道常総線の雑多気動車形式写真撮影、そして、まだ終わっていない卒論を仕上げねばならず、非常にタイトな状況になってしまいました。

 

1.キハ221他 (那珂湊:1987年2月)

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この新塗装は、正直この気動車には似合いませんし、このレトロな検車庫にも不釣り合いでした。

奥の方に旧塗装のキハ11が居ましたが、これもアメリカン化は時間の問題です。 

 

2.キハ112、キハ113 (那珂湊:1987年2月)

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この日はなぜかキハ11形が全車那珂湊にいました。

私にとってはどーでもよいキハ11形でしたが、一応記録に残さなければなりません。

 

3.キハ111+キハ1002 (那珂湊:1987年2月)

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キハ11形を初めて真面目に撮影しました。

あのアメリカン塗装を見てしまったので、不思議なことにこの常磐線モドキカラーが似合って見えました。

 

4.キハ223 (阿字ヶ浦:1987年2月)

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気を取り直して、在籍車の状況調査です。まずは、阿字ヶ浦まで乗車しました。

阿字ヶ浦はただ折り返すだけの終端駅ですが、異様に構内は広く、蒸気時代の給水塔も残っていました。阿字ヶ浦駅が広いのは夏場の海水浴輸送の名残です。この当時も辛うじて国鉄から臨時の海水浴列車が乗り入れていましたが、かつては海水浴客が阿字ヶ浦に押し寄せ、国鉄から多数の臨時列車が乗り入れたので、その留置線が残っていました。

 

5.キハ223 (阿字ヶ浦:1987年2月)

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キハ223は相変わらずの旋回窓付きでした。 冬場は海水浴客もなく、他に何もないので阿字ヶ浦は閑散としていました。そのうち廃線になってもおかしくない状況でしたが、あれから30年、今頃になって、この阿字ヶ浦から少し先に開設された、ひたちなか海浜公園まで湊線を延伸する計画が具体化されました。現在湊線は茨城交通ではなく、ひたちなか海浜鉄道として独立した、第三セクター鉄道に生まれ変わっていますが、1987年当時には想像もつかない出来事です。世の中何が起こるか分かりません。

 

6.キハ223の車内 (阿字ヶ浦:1987年2月)

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 キハ223の車内です。さすがにトイレは撤去されましたが、車内は国鉄キハ22形そのものです。出入口デッキもあり二重窓も健在で、まさに酷寒地仕様です。

 

7.キハ223 (阿字ヶ浦~磯崎:1987年2月)

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 阿字ヶ浦は海水浴場の最寄り駅ですが、高台にあるので駅の周りはとても海が近いとは思えない場所です。走行写真も海を入れて撮ることが出来ません。この日は天気がよかったので、ブラブラと平磯まで歩きながら撮影しました。