この頃の土日の鶴見線は、クモハ12形の単行が日中、鶴見から大川と海芝浦に交互に往復する運用でした。
茶色いクモハ12形は、まさにチャバネゴキブリのごとく、ごちゃごちゃした工場地帯を走り回っていました。
1.クモハ12052 (安善:1989年4月)
よって、鶴見~浅野間では結構クモハ12を見る機会がありました。ところが鶴見~浅野間はまともな撮影場所がなく、ほとんど撮影をしていません。せいぜい国道駅か浅野駅で撮ったくらいです。
2.クモハ12052 (武蔵白石~大川:1989年4月)
この写真は大川支線です。大川支線は、武蔵白石~大川間の一駅間の支線で、路線距離もわずか1kmしかありません。こんな盲腸線に旅客列車が走っているのも不思議ですが、この路線は貨物輸送も行っていました。写真の背景に写る大手小麦粉メーカーが主な貨物の顧客だった様ですが、現在は貨物輸送が廃止されてしまい、この路線の存在はますます不思議です。
3.クモハ12052 (武蔵白石~大川:1989年4月)
クモハ12形の存在目的はこの1駅間を往復するためでした。当時は、この路線に大型の20m車である101系が入線できなかったので、この1駅間のためにクモハ12形は生き延びていました。
ところで、この大川支線も本当に撮影場所に悩みました。まともに沿線で撮影すると、こんな写真くらいしか撮れません。この鉄橋は大川駅の手前にある運河を渡るものですが、ガーダーには戦時中の弾痕が残る痛ましい鉄橋です。
この鉄橋は現存しますが、渡る電車は今や205系です。
4.クモハ12052 (新芝浦:1989年4月)
一方、海芝浦支線はどうかと言えば、こちらも似たようなものです。この写真は鶴見行の電車が単線区間から複線区間となる新芝浦駅に到着するところです。
5.クモハ12052 (浅野~新芝浦:1989年4月)
浅野~新芝浦間も運河沿いを走りますが、沿道からいろいろ試しましたがこの程度です。結局鶴見線沿線は、どこも同じで撮影場所がほとんどありません。
6.クモハ12053 (海芝浦:1989年1月)
海芝浦での折返し時間にクモハ12053の車内を撮っていました。木製の室内、ほのかに漂う床油の臭い、スタンションポール、白熱灯の球形グローブ、本物の網棚などなど、なぜか弘南鉄道の大鰐線を思い出しました。