ローカル線の回顧録

1970年代後半から2000年頃までのローカル線の記録

第725話 1993年島原:島原大変!!(その4)

今回の訪問時に島原機関区にいなかった車両のうち、何両かは深江~加津佐間の分断された区間にいるはずです。分断区間は検修庫もなく、どうしているのか?。なにより、災害によって廃止に追い込まれてしまうケースもあり、それが心配でした。

 

1.D3703 (南島原:1993年10月)

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 南島原機関区の片隅に、D3703(注1)がいました。この機関車は貨物輸送用に3両新製された機関車の1両です。この機関車の導入で、それまで貨物輸送の主力であった蒸気機関車が淘汰され無煙化が図られましたが、1984年の国鉄貨物合理化で島原鉄道も貨物輸送を廃止したため、D3701、D3702が廃車されてD3703のみが保線用に残りました。

 

2.D3703 (南島原:1993年10月)

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 (注1)D3703の車歴

・島原D3703:1968年川崎車輌

 

3.キハ2007、旧キユニ4505 (南島原:1993年10月)

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 キユニ4505のダルマの横には、キハ2007とその横にはブルーシートで覆われたキハ2009がいました。キハ2007とキハ2009はこの1年前に正面衝突を起こして廃車となった車両です。事故の証拠物件として保管されていたのか?。この事故でキハ20形が2両減車となりました。路線も分断されていたので車両が足りなかったのではないかと思います。

 

4.キハ2009 (南島原:1993年10月)

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 こちらは、キハ2009です。キハ2007、キハ2009ともに衝突しなかった方の妻面はブルーシートに覆われていませんでした。

 

5.キハ2003+キハ20形 (南島原島鉄本社前:1993年10月)

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 南島原島鉄本社間には、有明海につながる船溜まりがありました。天気がイマイチでしたが、なかなか珍しい風景なので、ここで走行撮影です。ところで、この船溜まりは四方を囲まれており、係留されている船はどうやって有明海に出入りするのか?

 

6.キハ2003+キハ20形  (南島原島鉄本社前:1993年10月)

 

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 この船溜まりと有明海の間に島原鉄道の線路があり、一見して船溜まりが塞がれている様ですが、写真のちょうど列車が通過する場所にガーダーがあります。船はここをくぐって有明海と往来しますが、満潮だとこの写真の様にガーダーをくぐれません。さすがに干満の差が大きい有明海です。しかし、大潮の時など線路が冠水しそうです。

 

7.運休区間の踏切標記 (安徳:1993年10月)

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実はこの日の朝、分断された南側の運行状況を確認するため、深江まで行ってきました。しかし列車は島原外港までしか走っておらず、その先は列車代行バスに乗車しました。乗客は5人ほど。バスは土石流の被災地を仮復旧した道路を通り、路線分断後の起点である深江までです。私は、被災区間の状況を確認するためバスを途中下車しました。

 

8.土石流で埋まった安徳駅  (安徳:1993年10月)

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ここは安徳駅です。線路は完全に土砂に埋まっていますが、この辺は土石流被災地の際なので、これでも被害が少なかった一帯です。一番被害が大きかったのは、水無川流域です。深江に向かう途中、被災地を目の当たりにしました。土石流が堆積した水無川の河原には民家の屋根が突き出しており、流されたのか? その時の画像が手元に何枚かありますが、とても投稿する気にはなれません。まさに島原大変。被害の大きさに絶句です。

ところで、なぜ火山の噴火で土石流なのか?これは地形的な要因が絡みますが、こうなることを教訓として予防保全を図り、自然災害と共存しなければなりません。

この雲仙普賢岳噴火災害、阪神淡路大震災東日本大震災、そして昨今の異常気象による水害など、その教訓は風化させることなく後世に伝えなければなりませんね。

 

9.キハ55形  (布津~深江新田:1993年10月)

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この時は、布津~深江新田間でキハ55形の走行を撮影しましたが、雨が止まず普賢岳も全く見えませんでした。よって、分断された区間は日を改めて出向くことにして、この日は南島原機関区を再訪問し、熊本に向かいました。