1994年2月に2回目の島原鉄道訪問を行いました。1回目の訪問は、この4ヵ月前でしたが、天気が悪く車庫内にいた車両を見ただけでした。その際に気になったのが、雲仙普賢岳の噴火によって寸断されてしまった南線がどうしているのかと言うことでした。今回も出張中の広島から休日を利用して、金曜日の夜に諫早に入り、島鉄の始発で島原を目指しました。
1.キハ2016+キハ2001 (諫早:1994年2月)
早朝の諫早には、当時北線側の終点となっていた島原外港行きの気動車2連が入線していました。この2連は平凡な元国鉄キハ20形の様ですが、後ろの車両は島鉄オリジナルのキハ2001で、側窓がバス窓タイプでした。まずは終点の一駅手前の機関区がある南島原まで乗車ですが、距離は42kmでたっぷり70分程かかりました。
2.キハ2601+キハ2006 (南島原~島鉄本社前:1994年2月)
この日は晴れたり曇ったりの天気でした。諫早では陽が射しましたが、南島原で降りた時は曇っていました。最初の走行撮影は、南島原の船溜まりです。ちょうどキハ26がやって来ました。
3.キハ2008 (南島原:1994年2月)
南島原の機関区では、旧塗装のキハ2008が待機していました。この時点で、旧塗装はこの1両だけでしたが、私にとっては、この塗装の方が馴染みがありました。
4.キハ2008 (南島原:1994年2月)
キハ20形もかつての急行気動車塗装に塗られると、多少は貫禄があります。そして、この赤ひげが島原鉄道のトレードマークでした。
5.キハ2015 (南島原:1994年2月)
さて、その他の車両ですが、この日は多くの車両が出払っており、何両かのキハ20形しかいませんでした。
6.キハ2012 (南島原:1994年2月)
やはり、この類の気動車には、この塗装よりも、赤ひげの方が似合います。