ローカル線の回顧録

1970年代後半から2000年頃までのローカル線の記録

第851話 1994年島原:分断された南線は・・・(その2)

南島原の近くにある公園に、C12が保存されていました。なんとトップナンバーですが、これは国鉄のC12ではなく、島鉄のC12でした。

 

1.C1201保存機 (南島原霊丘公園:1994年2月)

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 島原鉄道は1968年までこのC12が活躍していました。それまではディーゼル機関車というものが在籍していなかったそうで、ある意味驚きです。

 

2.C1201説明板 (南島原霊丘公園:1994年2月)

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 C12は国鉄のC12を模して製造された島鉄の発注車でした。島鉄にはこのC12が5両も在籍していました。島鉄は路線長が78kmもある結構大きな鉄道会社でしたが、それでもC12クラスの機関車を5両も自前で発注するとは、かなり羽振りがよかったのか精力的でした。その後も国鉄気動車やDD37へと、新車の発注がつながって行きます。

 

3.深江駅と列車代行バス (深江:1994年2月)

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 さて、本題に入りますが、この時点の島原鉄道は、雲仙普賢岳の噴火災害に被災して島原外港~深江間が不通となっていました。よって、島原外港から先のいわゆる南線は、深江~加津佐間で孤立して運行されていました。南線に乗るため島原外港から深江まで、列車代行バスに乗車しました。列車代行バスとは言っても写真に写っている緑ナンバーのワンボックスです。この程度の利用客しかいないとは、深江から先もバスで十分なように思えました。

 

4.キハ5503 (深江:1994年2月)

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 深江にはキハ5503がいました。南線側にはいったい何両の気動車がいるのか、まったく見当も付きませんが、南線には車庫がなく、列車検査もどうしているのか?

 この日はとりあえず、終点の加津佐へ向かい、その後、原城まで戻り沿線撮影をしました。

 

5.キハ2603他 (加津佐:1994年2月)

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 ここは、南線の終点である加津佐です。ここに何両かの気動車が留置されていましたが、ここが簡易的な車両の検修所兼車庫になっていました。

 

6.キハ5503 (加津佐:1994年2月)

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 先ほど乗って来たキハ5503です。給油の為か入庫してしまいました。この車両は国鉄のキハ55形を模した島鉄の発注車ですが、なぜかエアサスです。長崎本線乗り入れ用に導入されたので2エンジンですが非冷房でトイレもありません。そんなわけで国鉄乗り入れ廃止後は活躍の場が狭まり、1994年にキハ5501が廃車となり、その後も新車のキハ2500形の増備に合わせて徐々に廃車が進みました。

 

7.キハ2603 (加津佐:1994年2月)

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 キハ26形はキハ55形の1エンジンタイプとして、同時期に製造されましたが、こちらは1972年には冷房化され、キハ20形が冷房化されるまでは、長らく夏場は引っ張りダコでした。写真のキハ2603はこのシリーズの最終増備車でキハ5506と同じく、前照灯の2灯化と台車がコイルバネ化されました。キハ26形も1994年にキハ2601から廃車が始まりました。