ローカル線の回顧録

1970年代後半から2000年頃までのローカル線の記録

第810話 1995年南海(高野):初代ズームカーとの出会い

今回はローカル線とは全く無関係な話題です。正直パスしようか、それとも番外編にまわそうか悩みましたが、そろそろ古い車両のネタがなくなって来たので、この様な初期のカルダン車の話題も上げることにしました。ご了承願います。そんなわけで、今回は関西大手私鉄である南海電鉄の初代ズームカーの話題です。

 

1.21000系旧塗装4連 (紀伊清水~橋本:1995年7月)

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そもそも、初代ズームカーとの出会いですが、私が1995年に大阪転勤となり、泉北に住むことになったことから、南海電車を利用する機会が増えたことにあります。当時の南海電車は、まさに関空フィーバーでしたが、ラピートが発着する南海難波駅の一番反対側のホームにとんでもないクラシックな湘南電車モドキが当たり前の様に止まっており、大変気になっていました。

 

2.21000系新塗装4連 (紀伊清水~橋本:1995年7月)

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 この湘南電車モドキは、いったい何モノなのか?そう言えば、京福電鉄越前本線で似た電車を見たことがありましたが、その売れ残りなのか?しかし、その実態は高野線大運転用の初代ズームカー21000系であり、京福電鉄越前本線のアレとは全く違う車両であることがわかりました。「大運転用」とは、高野線山間部の50‰勾配を全界磁で30km/h走行を行い、平野部を弱界磁25%で100km/h走行を行うものとのこと。

 

3.21000系新塗装4連 (紀伊清水~橋本:1995年7月)

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 初代ズームカー新製当時の「電気車の科学:1958年Vol.11」によれば、初代ズームカーを「高野線用として平坦線と急勾配線とを直通運転できて、しかも平坦線で高速度特性が発揮できる画期的性能を有する17m全金属製平行カルダン駆動式電動客車。」と評されています。それまでの一般的な主電動機では、勾配性能と平坦性能の両立が難しかったようで、弱界磁は40%が限界で、最高速度は定格の2.5倍を超えることが出来ず、平坦部の最高速度は75km/hしか出せなかったそうです。

 

4.21000系新塗装4連 (紀伊清水~橋本:1995年7月)

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 そして、「電気車の科学」によれば、ズームカーの名の由来は、航空機用語とのことで、「航空機の急角度上昇を表しており、ズームカーが急勾配線をグングン上がってゆく力強さに相応しく、また最近テレビあるいは映画のカメラに使用されているズームレンズが、1本のレンズで広角から望遠まで広範囲に焦点距離を任意に変えられるように、この車両が山間線では低速で大きいけん引力を出し、平坦線では高速度で運転できる性能の車両である・・・」。とにかく、この他にも画期的な車両だったようで、当時の南海電鉄の車両課長さんが熱い思いを「電気車の科学」に執筆されています。

 

5.22000系新塗装4連 (紀伊清水~橋本:1995年7月)

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 さて、ズームカーを語る上で無視できないのが、この貫通ズームカーです。この車両は

初代ズームカーの増結用として1969年に登場した22000系です。増結用なので、2両固定の貫通タイプとなり、オールロングシートの両引き2扉車となりましたが、時々増結車同士で編成を組んで、21000系を補完していました。なお、この時点で22000系は更新改造が始まっており、高野線用の更新車は改番されて2200系モハ2201形になっていました。

 

6.30000系4連こうや号 (紀伊清水~橋本:1995年7月)

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 そして、この電車は最近車庫内で脱線して、にわかに話題に上がった特急車両ですが、これも初代ズームカーとほぼ同性能であるズームカー一族です。高野線の特急と言えば、デラックスズームカーと称された20000系を使用して、1961年から本格的に運行されましたが、この車両は2代目の30000系です。1983年に導入されましたが、時期的に堅実な抵抗制御となりました。

 

7.30000系4連こうや号 (紀伊清水~橋本:1995年7月)

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 私は幼少の頃、兵庫県西宮に住んでいたので、関西の私鉄は阪急電車阪神電車はよく利用し、京阪や近鉄も沿線に親戚が住んでいた関係でたまに乗りました。しかし、南海電車だけは乗る機会が全くなく、大阪転勤が南海電車を知る転機となりました。