以前、1988年頃の越後交通長岡線の廃線探訪を、第478話~第486話でお伝えしましたが、当時の長岡線は廃線と言えども、線路はほとんどそのままの状態で放置されており、廃線探訪にも気合が入りました。一方、栃尾線の方は廃止後すぐに線路が撤去されたようで、遺構も少なく、全線を踏破する気も起りませんでしたが、廃線跡を路線バスで辿り、若干の遺構を記録していましたので、非常に淡白ではありますが、画像をピックアップしてお伝えします。
1.旧刈谷田川橋梁 (名木野、明昌~上見附:1987年5月)
まずは、栃尾線最大の遺構である上見附の刈谷田川橋梁です。この橋は、事実上渡れない橋でした。再利用もされず、撤去費が掛かるので放置されていたのか?
2.旧刈谷田川橋梁 (名木野、明昌~上見附:1987年5月)
栃尾線は、上見附でスイッチバックして長岡or栃尾へ向かいました。この橋梁は上見附の手前にあり、長岡と栃尾方面に向かう線路が複線になっており、結構立派な鉄橋でした。
3.廃線跡 (上見附~名木野、明昌:1987年5月)
この写真は鉄橋の長岡寄りですが、左が栃尾方面、右が長岡方面へ向かう軌道跡の分岐点です。栃尾線は、上見附~栃尾間を1973年に廃止したので、晩年は左の線路が先に撤去されました。
4.廃線跡 (上見附~名木野、明昌:1987年5月)
鉄橋を渡ると、正面に見えるのは元上見附駅の構内です。写真の右側の草むらは軌道跡で、鉄橋から駅までは複線になっていました。
5.旧上見附構内 (上見附:1987年5月)
ここは、旧上見附駅の構内です。写真の前方が鉄橋です。上見附駅は鉄道廃止後もバスの営業所となり存続し、駅構内はバスの車庫に転用されていましたが、かなりのぬかるみです。写っているバスも、今となっては懐かしいスタイルをしています。
6.旧上見附駅舎 (上見附:1987年5月)
上見附の駅舎は、バスの営業所兼待合所になっていました。現在も長岡~栃尾間のバスルートは、異なる系統が栃尾線とほぼ同ルートをカバーして運行されています。しかし、山間部を短絡するトンネルが完成し、そちらを走るバスに乗れば、上見附を通らず半分以下の時間だとか。
ここから写真の画像が悪くなりますが、これは色褪せたプリントをスキャンしたものです。ご容赦願います。さて、この写真は終点の栃尾です。栃尾と言えば、居酒屋で良く見かける「バカでかい油揚げ」くらいしか印象にありませんが、とんでもない豪雪地帯です。栃尾線が健在だった頃は、唯一頼れる交通手段だった様ですが、どの程度頼りになったのか?しかし、現在は山を貫くトンネルが開通し、豪雪でも長岡まで20分足らずで行けるそうです。栃尾線の時代はなんだったのか!ところで、栃尾駅跡ですが、ここも越後交通のバス営業所になっており、鉄道時代の駅舎が事務所兼待合所として活用されていました。
8.旧浦瀬駅 (浦瀬:1987年5月)
場所が変わり、ここは浦瀬駅跡の軌道敷です。右の建物は旧駅舎で、建材置き場の様ですが、この当時はバス停の待合所になっていました。
9.廃線跡 (浦瀬:1987年5月)
この写真は旧浦瀬駅から上見附方向の廃線跡を撮影したものです。栃尾線の廃線跡は大半がこの様な農道とも草むらとも区別がつかない状態でした。
10.高校前駅跡 (高校前:1987年5月)
この写真は、長岡市街地の悠久山方面の廃線跡です。栃尾線はナローゲージだったので軌道敷も狭く、廃線跡は手っ取り早く駐車場として利用されていました。
11.旧福島江用水鉄橋 (長岡~高校前:1987年5月)
長岡市街地で唯一の遺構である鉄橋跡です。この頃の廃線跡は、線路こそありませんでしたが、そのスペースからある程度見極めが出来ました。このあと、悠久山まで廃線跡を辿って歩きました。廃線跡は市街地を抜けると一部農道?化されていましたが、雨が強くなり撮影どころではなくなったので、写真は以上です。ちなみに、悠久山駅跡はほぼ更地になっていました。あれから36年が経ち、現在はどうなっているのでしょうか。しかしながら、保存車両が1両もなくなってしまい、大変残念と言うか、寂しい限りです。