ローカル線の回顧録

1970年代後半から2000年頃までのローカル線の記録

第1008話 1985,87年越後交通(栃尾):遺構を求めて

私が接することのできた現役時代の越後交通は、1987年以降の、すでに貨物専業となっていた長岡線の残存区間だけでした。長岡線は復活を目論んだという噂もあり、当時は長大な廃線跡が手つかずの状態で放置されていました。それらの様子は、以前、第478話~第486話でお伝えしましたが、かつて越後交通には、もう1路線、ナローゲージ栃尾線が存在しました。今まで栃尾線の話題には触れていませんでしたが、その理由は私が貨物専業となった長岡線の撮影を始めたころには、栃尾線は完全に消滅しており、廃線跡もほとんど跡形がなかったからです。しかし、若干の保存車両と廃線跡に残る遺構を記録していましたので、今回報告します。

 

1.長岡市地形図(引用:国土地理院1/50000地形図「長岡」昭和48年発行)

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この地形図は、長岡線、栃尾線共に健在だった頃のものです。適宜拡大してご覧ください。長岡市は大河の信濃川に東西を分断されており、その西側に長岡線、東側に栃尾線が走っていました。それぞれは生い立ちが異なり越後交通として合併したもので、共に1975年3月で廃止となりましたが、長岡線は来迎寺~西長岡~関原間のみが貨物専業鉄道として1994年まで存続しました。

 

2.クハ111と有蓋貨車(保存) (見附市:1985年3月)

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さて、栃尾線ですが、ナローゲージの大変個性ある車両を保有していましたが、長岡線と違い、廃止後は速やかに撤去されてしまい、保存車両の情報もありませんでした。しかし、1985年に蒲原鉄道のさよなら運転を見に行った際に、偶然見附市内でこの保存車両に遭遇しました。

 

3.クハ111(保存) (見附市:1985年3月)

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この車両は元栃尾線クハ111(注1)です。もと江ノ電の車体を大改造したとんでもないゲテモノでした。この車両は、保存目的ではなく、ドライブインの商業施設に利用されていたようですが、なぜこの車両が選ばれたのか?

(注1)クハ111の車歴

・越後クハ111←越後ホハ23←越後クハ101←栃尾ホハ23←江ノ島115←武蔵中央6:1929年日本車輌

クハ111は栃尾鉄道時代の1957年に江ノ電から購入され、当初は付随車としてそのまま使用されていましたが、1961年の東横車輌にて写真の車体に改造されクハ101になりました。その後、一時期付随車(2度目のホハ23)になりましたが、合理化の総括編成用にクハ111として復活し、廃止まで活躍しました。

 

4.サハ306?(保存) (長岡市:1987年5月)

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そして、もう1両は長岡線越後関原近くのドライブイン観音山会館に保存されいたのが、306と標記された謎の電車?。栃尾線にはサハ306(注2)という車両は存在しましたが、実はこの電車は元栃尾線サハ306に前照灯パンタグラフを付けたもので、なんとか電動車にでっち上げたようです。

 

5.サハ306?(保存) (長岡市:1987年5月)

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しかしこの電車は、元を辿れば元草軽電鉄のモハ105と称する歴とした電動車でした。栃尾線では、草軽電鉄廃止時に電車や電気機関車などを譲受しました。そのうちの1両がこの電車?で、栃尾線でも最初はモハ200と称する電動車でした。

 

6.サハ306?の台車(保存) (長岡市:1987年5月)

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台車は、日本鉄道自動車製の板枠台車です。結局これらの車両は老朽化で解体されてしまい、現在栃尾線の車両は1両もありません。そう言えば、長岡線の保存車両も全て解体されたとか。

(注2)サハ306の車歴

・越後サハ306←越後モハ200←栃尾モハ200←草軽モハ105:1942年日本鉄道自動車製

サハ306は1972年にモハ200を電装解除したものですが、モハ200は1959年に垂直カルダン化されていました。栃尾線の電車は見てくれが凄まじい車両ばかりではなく、気動車改造のものやメカ的に大変興味深いゲテモノが多数存在しました。