ローカル線の回顧録

1970年代後半から2000年頃までのローカル線の記録

第164話 1980年伊予 関東大手私鉄車両の余生

今回は1980年の伊予鉄道です。

当時私は広島に住んでいました。松山は瀬戸内海を挟んだ対岸ですが、一般人が広島から松山に行くには船しか交通手段がなく、今もたいして変わらないと思いますが、フェリーで3時間もかかりました。そんなわけでなかなか四国に行く気が起らず、初めて四国に渡ったのがこの時でした。ところが、この時は伊予鉄道が目的ではなく、高校の部活仲間と松山へ高校総体を見に行くのが目的でした。

しかし、初めての松山で伊予鉄を拝まずに帰るわけにはいきません。ちょっと抜け出して向かったのが、伊予鉄の古町車庫と国鉄の松山機関区でした。

何の情報も持たず、古町車庫で初めて見た伊予鉄の電車は、元西武、元京王、元小田急・・・ほとんどが関東の大手私鉄出身でした。もっとも、伊予鉄自体も四国の大手ですが、はるか四国で関東の大手私鉄車両が仲良く余生を送っていたとは意外でした。

当時私は大手私鉄の電車にはほとんど興味がなく、残念ながら伊予鉄は上っ面だけ見て、とっとと松山機関区へDF50を見に行ってしまい、まともな写真がありません。しかも例によって、当時はまだインスタントカメラ時代だったので画像も悪く、今回もわずかなプリントからのスキャン画像ですが、少々ご紹介します。

 

1.当時の伊予鉄の面々モハ112、モハニ203、モハ135他 (古町:1980年8月)

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この写真はとりあえず撮ったものですが、左から元西武編成、伊予鉄オリジナル編成、元京王編成です。

この頃は、まだ京王から2010形が譲渡される前で、伊予鉄電化時の生え抜き車両がいました。写真を良く見ると、中央に写っているモハニ203Ⅱ(注1)は電化時に導入されたモハニ203Ⅰの戦災復旧車です。復旧時に3ドア車のクハ400形と同じ車体を新製し、その時点で新車名義となりましたが、この車両だけ他のモハニ200形と異なる外観になってしまいました。

(注1)モハニ200形の車歴

・伊予モハニ201~206:1931年日本車輌

・伊予モハニ203Ⅱ:1950年日本車輌製(モハニ203の戦災復旧時に新製)

 

2.モハ112+クハ411+モハ111 (古町:1980年8月)

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 伊予鉄道が電化されたのは1931年です。よって、伊予鉄初の電車も1931年製ですが、伊予鉄にはそれよりも古い電車がいました。それが、元西武鉄道のクモハ150形、クハ1150形だった、モハ110形(注2)、クハ410形(注3)です。

言わずと知れた川造タイプの車両です。これらは1965年~1967年に伊予鉄にやって来ましたが、入線時に西武所沢工場にて車体外板を張り替える更新を実施したので、この車両は結構長持ちしました。

(注2)モハ110形の車歴

・伊予モハ111~115←西武クモハ157,153,154,158,151:1928年川崎造船

(注3)クハ410形の車歴

・伊予クハ411~413←西武クハ1153,1154,1152:1928年川崎造船

 

3.モハ103+クハ403+モハ二203(古町:1980年8月)

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この写真の編成は、伊予鉄オリジナル車両のみの3連です。

この当時は伊予鉄電化時に導入した4両のモハ100形(注4)がまだ現役でした。モハ100形はモハニ200形と同期で、いずれも16m級の2ドア両運車(モハニ200形は荷物室のドアがあるので実態は3ドア)でしたが、連結運転の必要性から片運化され、晩年はモハニ200形とクハ400形(注5)の固定編成にモハ100形を増結した3連が基本となっていました。

(注4)モハ100形の車歴

・伊予モハ101~104:1931年日本車輌

・伊予モハ105,106←伊予クハ405,406:1949年帝国車輌製

(注5)クハ400形の車歴

・伊予クハ401~404:1949年帝国車輌製

・伊予クハ406Ⅱ:1951年ナニワ工機

・伊予クハ405Ⅱ←伊予クハ407:1951年ナニワ工機

なお、クハ400形は当初6両製造され、クハ405,406はモハ105,106に改造・改番されました。また、後に2代目となるクハ 405(当初クハ407),クハ406が1951年にナニワ工機で製造されました。

 

4.モハ135+サハ512+モハ136他(古町:1980年8月)

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モハ130形(注6)、サハ510形(注7)は、相模鉄道京王帝都電鉄の廃車体を流用した雑多なグループです。この内、モハ133~136とサハ511,512は1974年~1975年に3連増備目的で 元京王帝都電鉄の廃車を車体更新したものですが、その前身は帝都電鉄が帝都線(現京王井の頭線)の開業に備えて新造したモハ100形、モハ200形にまで遡ります。

(注6)モハ130形の車歴

・伊予モハ131,132←相模モハ2015,2016:1955年東急車輛

・伊予モハ133←京王デハ1402←京王デハ1404←東急デハ1402←帝都モハ104:1933年川崎車輌

・伊予モハ134←京王デハ1403←京王デハ1457←東急デハ1457←帝都モハ207:1936年川崎車輌

・伊予モハ135←京王クハ1203←京王サハ1203←京王クハ1559←東急クハ1559←小田急クハ259:1941年日本車輌

・伊予モハ136←京王クハ1204←京王サハ1402←京王クハ1402←京王1581←東急デハ1408←帝都モハ108:1933年川崎車輌

(注7)サハ510形の車歴

・伊予サハ511,512←京王デハ1802,1803←京王デハ1403,1406←東急デハ1403,1406←帝都モハ103,106:1933年川崎車輌

 

5.モハ125(古町:1980年8月)

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 モハ120形(注8)は当初京浜急行400形の車体を流用して1968年に西武所沢工場で3両製造されたの新車名義の増結用片運車両でした。しかし、その後1978年に4連化増備の目的で小田急から譲受したデハ1900形の更新グループもモハ120形の追番となり、少々ややこしいです。しかし、元小田急グループは運転台側の非貫通化によって外観が変わってしまいました。

(注8)モハ120形の車歴

・伊予モハ121~123:1968年西武所沢工場製(京急400形の車体流用)
・伊予モハ124,125←小田急デハ1901,1902:1949年川崎車輌

 

6.市内線モハ81(古町:1980年8月)

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さて、伊予鉄で忘れちゃいけないのが市内線です。しかし、伊予鉄の市内線は広電と違い、徹底した車種統一が図られていました。厳密には譲渡車を含めて形態的には5形式程に分類されますが、元京都市電だったモハ2000形以外はなぜか皆モハ50形に形式統合されていました。しかもどの車両もまだ新しく、よって、撮影の対象にはならず、撮った写真も2~3枚程度でした。その 内の1枚がこの写真ですが、この車両を写した理由は、この車両が伊予鉄唯一の異端車だったからです。

この車両は、元南海和歌山軌道線321形324号で、路線廃止時の1971年に譲受したものですが、たった1両だけやって来ました。この車両も50形に編入され、ワンマン化されて81号(注9)となりましたが、やはり1両だけでは異端車扱いされるのも当然で、1987年に廃車となりました。

(注9)市内線モハ50形81号の車歴

・伊予81←南海和歌山324:1963年日立製作所

 

7.ハ31廃車体(古町:1980年8月)

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 これは古町車庫にあった元横河原線の2軸客車だったハ31のダルマです。まさに「坊っちゃん列車」を彷彿させる“お宝”です。

当時は清掃員の詰所に使用されていたようですが、その後足回りを復活させて保管されました。

 

以上が1980年の伊予鉄道の様子です。当時は大手私鉄の電車にあまり関心がなかったので、あまりにも薄っぺらい撮影内容でしたが、その後、改めて伊予鉄を訪問したのは、はるか12年後の1992年でした。その時の伊予鉄は、元京王2010形、5100系が大量導入されており、あわや京王伊予線のようでしたが、まだモハ110形が健在だったのには驚きました。